五代友厚 堺事件(足跡篇)
Godai Tomoatsu, The Sakai Incident (Footprints)

大阪府堺市に行き、堺事件の痕跡をたどりました。

I visited Sakai, which is a city located in the south of Osaka prefecture, to follow the traces of the Sakai Incident.

旧堺燈台です。明治10年(1877年)に堺の人々の寄付により築造されました。昭和43年(1968年)でその役割を終えましたが、保存修理工事を経て往時の姿を今に伝えています。現地に現存する日本最古の木造洋式燈台だそうです。当時は波止場があり、その突端にこの燈台がありました。

旧堺燈台
旧堺燈台 The Old Light House at the Port of Sakai

堺港は中世にはアジア交易の拠点となり、堺のまちは国際都市としてたいへん栄えました。しかし、宝永元年(1704年)に大和川の付け替えが行われて以降、川から港に土砂が流れ込み、船の出入りが難しくなって次第に衰退していったといいます。

旧堺港
旧堺港 The Old Port of Sakai

港から陸に上がってすぐの川沿いに、いくつもの石碑がたち並んでいる場所があります。

堺事件発生地と天誅組上陸地の碑
堺事件発生地と天誅組上陸地の碑 The Monuments of Sakai Incident and Tenchu-gumi

「明治初年佛人撃攘之處」、つまり堺事件発生地です。

堺事件発生地
堺事件発生地の碑 The Monument of Sakai Incident, 1868
幕末の旧堺港
堺旧港の説明板 The Explanation Board of Old Port of Sakai

海に沈んだ遺体がなかなか見つからず、五代友厚らが「死体を探し出した者へは金三十両を与える」という触れを出して、やっと引き上げることができたといいます。堺事件が起こったのは慶応4年2月15日、新暦の3月8日ですからまだ寒い季節のことでした。

責任をとって切腹した土佐十一烈士の碑もあります。

土佐十一烈士顕彰碑
土佐十一烈士顕彰碑 The Monument of Eleven Samuras of the Tosa Clan

隣りあって「天誅組義士上陸蹟」碑が並んでいます。文久3年(1863年)に挙兵した天誅組の上陸地でもありました。

天誅組上陸地
天誅組上陸地の碑 The Monument of the Landing Point of Tenchu-gumi

土佐藩士11人の切腹が行われた妙国寺です。
デュプレックス号艦長のプティ=トゥアール(Petit-Thouars)の日記には、五代友厚に案内された場所を「大きな塔のあるところ」と書いています。当時は三重塔がありましたが今はありません。空襲で焼失したそうです。

妙国寺山門
妙国寺山門 The Main Gate of Myokokuji Temple

妙国寺の山門近くに、「とさのさむらいはらきりのはか」、「土佐十一烈士墓所」を示す道標があります。

とさのをさむらいはらきりのはか
妙国寺前の道標 The Guidepost in front of the Myokokuji Temple
土佐十一烈士墓所
土佐十一烈士墓所を示す道標 The Guidepost Indicating the Graves of Tosa Samurais

妙国寺は16世紀半ばに日蓮宗により開かれた寺で、樹齢千年を超えるといわれる蘇鉄(そてつ)があることで有名です。織田信長や豊臣秀吉、千利休などとも関係が深いそうです。本堂に入るには拝観料が必要ですが、国指定の天然記念物である大蘇鉄や土佐藩士が切腹に使った刀などの展示もあって、ボランティアの方が丁寧に説明してくださいます。境内には、大蘇鉄のほかにもたくさんの蘇鉄が植えられています。

妙国寺
妙国寺 The Myokokuji Temple
妙國寺の蘇鉄
妙國寺の蘇鉄 Cycad trees of Myokokuji Temple

土佐十一烈士の墓は、妙国寺裏手の宝珠院にあります。宝珠院には宝珠学園幼稚園が併設されていて、園庭に墓所があります。

宝珠学園幼稚園
宝珠学園幼稚園 The Hoju-Gakuen Kindergarten
土佐十一烈士墓と宝珠院
土佐十一烈士墓と宝珠院 The Graves of Eleven Samurais of the Tosa Clan

遠くからしか見ることができませんでしたが、緑色の滑り台の向こうに11基の墓と碑が並んでいます。

土佐十一烈士墓所がある宝珠学園幼稚園
土佐十一烈士墓所がある宝珠学園幼稚園 The Kindergarten and 11 Graves of Tosa Samurais

これは説明板の写真にあった11基の墓です。勅願所である妙国寺に切腹した者を葬ることはできないということで、宝珠院に埋葬されることになったそうです。

土佐十一烈士の墓
土佐十一烈士の墓 The Eleven Graves of Tosa Samurais
宝珠院説明板
宝珠院説明板 The Explanation Board of Hojuin Temple

<住所>
旧堺燈台:堺市堺区大浜北町5丁1
堺事件発生地:堺市堺区栄橋町2丁5
妙国寺:堺市堺区材木町東4-1-4
宝珠院:堺市堺区宿屋町東3-2-36(宝珠学園幼稚園)

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五代友厚 堺事件(2)
Godai Tomoatsu, The Sakai Incident (2)

妙国寺
妙国寺(近畿名勝写真帖.続 明治34年) Myokokuji Temple, 1901

慶応4年2月15日(1868年3月8日)の堺事件で土佐藩士による銃撃や溺没により死亡したフランス兵は、士官1人を含む11人であった。

2月16日に堺で仏人行方不明者の捜索をした五代友厚は明け方大阪に戻り、17日は大阪に碇泊していた仏艦ヴェニュス号(La Vénus)を小松帯刀とともに訪れ、遅れてやってきた2人の外国事務総督東久世通禧および伊達宗城とともに、フランス側に今回の暴挙を詫びる。伊達宗城公家日記には、伊達が11時に仏艦を訪れた際「小松五代前に参居食事中也更二是迄と不違」とある。国同士の激しい政治的やり取りとは別に、外交官同士の人間的なつながりもあったのだろう。

五代はそのまま残ってフランス人と一緒に埋葬準備のため兵庫(神戸)へ向かう。18日に埋葬が済むと大阪に戻り、19日から22日にかけ加害者の処罰、被害者家族への賠償、土佐藩主の謝罪についてフランス及びその他各国との折衝があった。そして、堺の妙国寺で加害者20人の処刑が行われることが決まる。

2月23日(3月16日)、五代はデュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)を初めとする20人ほどのフランス人を妙国寺に案内した。割腹は午後4時から始まったが、11人目が終ったところでトゥアールは五代を呼び、処刑の中止を申し出た。トゥアールは五代を伴ってヴェニュス号で待機していた仏公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)のところへ行き、残る9人の処遇について裁可を仰ぐ。

午前3時に伊達宗城は仏公使から書簡を受け取り、処刑が11人目で取り止めになったことを知る。ほどなく五代が帰阪し伊達に委細を報告している。この時の外国事務関係者は、夜を日につぐ働きで神戸事件、堺事件の解決に尽くした。

土佐藩士11名は、妙国寺隣りの宝珠院に葬られた。

Eleven Samurais of the Tosa Clan committed suicide by “seppuku” at the Myokokuji Temple of Sakai,  in order to take responsibility for the deaths of eleven french sailors.  Godai Tomoatsu witnessed the “seppuku” with the captain of french corvette Dupleix,  Abel du Petit-Thouars.

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
宇和島伊達文化保存会監修『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』2015年

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五代友厚 堺事件(1)
Godai Tomoatsu, The Sakai Incident (1)

堺事件
堺事件 Sakai Incident (Le Monde Illustré, 13 juin 1868)

神戸事件が滝善三郎の切腹により一応の解決をみたのが慶応4年2月9日(1868年3月2日)、それからわずか数日後に再び堺で攘夷事件が起こる。堺は大阪から南にわずか15キロほどの場所に位置するかつて海外交易で栄えた町である。

伊達宗城公家日記によると、堺事件が起こった2月15日(3月8日)は、七半時(午後5時頃)より大阪のフランス公使の旅寺にて懇親の宴会を催していたという。2月下旬に京都で各国公使が明治天皇に謁見することが決まっており、その話などもしていたようだ。そこに堺港で土佐藩士とフランス人が衝突、一人を殺害したらしいという知らせが入った。仏公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)にもその旨伝えられたがさして騒ぎにはならず、翌日調査の上詳細を報告するということで宴席は続いた。

しかし、実際は仏水兵に多数の死傷者及び行方不明者が出ており、フランス側は早急に行方不明者を返すよう要求してきた。翌日五代友厚は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)とともに堺に急行し、行方不明であった7人の遺体を探し出し、明け方報告のため大阪に戻り伊達宗城(だてむねなり)のもとに行っている。

森鴎外の『堺事件』では、堺町を警護していた土佐藩兵が発砲したのは、仏水兵の暴慢な振る舞いがためとなっている。一方、死傷者を出した仏艦デュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)によれば、彼らは測量をしていただけであり、うち2名が仏人上司の許可を得て防波堤を散歩していた際突然武装した集団に取り囲まれ、その後銃撃戦が始まったとしている。伊達宗城も、五代らの報告により、仏人による乱暴などはなかったと捉えていたようだ。

Ten French sailors and one officer were killed at the port of Sakai, by Samurais of the Tosa Clan in 8 March 1868.  Godai Tomoatsu made every exertion in order to solve the incident.

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
宇和島伊達文化保存会監修『伊達宗城公御日記 慶応三四月より明治元二月初旬』2015年
大岡昇平『堺港攘夷始末』1992年
森鴎外『堺事件』1914年

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