五代友厚 モンブランと日本(足跡篇)

これまで紹介した中から、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)が日本で滞在したであろう場所を集めてみました。

戊辰戦争が始まる直前、モンブランは五代友厚らとともに兵庫津に入りました。当時の兵庫と神戸は湊川を境に2つの湾になっていて、明治の開港以降は神戸港が大きく発展しましたが、江戸時代までは兵庫津の方が栄えていました。五代が開聞丸を泊めていたのは兵庫津の方です。

兵庫神戸両港全圖
兵庫神戸両港全圖 Map of Hyogo and Kobe ports, 1880

薩摩藩の浜本陣、畠山助右衛門方小豆屋は地図の数字2です。その隣りの数字3は、長州藩などが利用していた「繪屋」ということです。今の出在家町付近で、この辺りは西国大名たちが参勤交代の際の宿泊や休憩に使った浜本陣が多数ありました。五代も小豆屋に泊まっていました。

兵庫津の浜本陣
兵庫津の浜本陣 Hama-honjin (Subsidiary inns used by Daimyos during the Edo period)

近くに兵庫城跡があります。維新後は兵庫県庁になりました。初代兵庫県知事は伊藤博文です。慶応4年1月に発生した神戸事件の際、ともに外国事務局判事であった五代と伊藤は協力して事件の解決にあたりました。

兵庫城跡
兵庫城跡石碑 Hyogo Castle Ruins

戊辰戦争が始まると、五代は安全のためモンブランを一時イギリス公使ラウダ(John Frederic Lowder)のもとへ送りましたが、その後モンブランは薩摩藩の庇護の元しばらく京都に滞在していたようです。慶応4年2月に天皇謁見のため京都を訪れたフランス公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)らは相国寺に滞在しましたが、到着した一行を出迎えたのはモンブランだったといいます。

相国寺総門
相国寺総門 The Main Gate, Shokokuji Temple

京都の薩摩藩邸は複数ありましたが、相国寺の西隣りにあったのが二本松屋敷です。文久2年(1862年)に造られた比較的新しい邸で、幕末維新の重要な政治拠点となりました。現在は同志社大学となっています。

薩摩藩邸跡(二本松藩邸)
薩摩藩邸跡(二本松藩邸)The Monument of the Nihonmatsu Residence of the Satsuma Domain
二本松屋敷説明板
京・薩摩藩邸(二本松屋敷)説明板 The Explanation Board of the Nihonmatsu Residence of the Satsuma Domain

慶応4年の春頃よりモンブランは大阪に住んでいたようです。五代は大阪川口運上所の責任者となり、開港とともに持ち上がった数々の問題を解決するためたいへん忙しくしていました。

川口運上所説明板と大阪開港の地石碑
川口運上所説明板と大阪開港の地石碑

ここは大阪電信発祥の地でもあります。モンブランは、大阪と神戸を結ぶ電信の架設を申請しましたが、「我政府に於て」行う旨五代より回答があり、申請は却下されました。

大阪電信発祥の地碑
大阪電信発祥の地碑 The First Telegraph Station in Osaka

仏艦デュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)によると「モンブラン氏の家の石段の所で一隻の船がわれわれを待っていた」とあるので、モンブランは海か川の近くに住んでいたようです。外国人が住むことのできる場所は限られていましたので、それは川口居留地であったかもしれません。

川口居留地跡
川口居留地跡 The Monument of Kawaguchi Foreign Settlement

<住所>
浜本陣のあった付近:神戸市兵庫区出在家町
兵庫城跡石碑:神戸市兵庫区切戸町5
薩摩藩邸跡碑(二本松屋敷):京都市上京区岡松町(同志社大学)
相国寺:京都市上京区相国寺門前町(今出川通烏丸東入)
大阪開港の地、大阪電信発祥の地:大阪市西区川口2-9-20
川口居留地跡:大阪市西区川口1-5-19 (本田小学校北西角)

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五代友厚 モンブランと日本(2)

『日本』シャルル・ド・モンブラン
『日本』シャルル・ド・モンブラン “Le Japon en 1866” Charles de Montblanc

慶応3年12月28日(1868年1月22日)、五代友厚は、新納久脩(刑部)、モンブラン(Charles de Montblanc)と共に兵庫湊に入った。薩摩藩の定宿である小豆屋に滞在していたが、年が明けて慶応4年1月3日、兵庫沖で幕艦が薩船に大砲を放ち、鳥羽・伏見で幕軍と薩長軍が戦闘状態になると、五代はモンブランを英公使ラウダ(John Frederic Lowder)に託し、自身は開聞丸に戻る。

1月11日に神戸事件が起こると、五代は新政府の徴士参与兼外国事務掛を仰せ付けられ、その後も堺事件京都でのパークス襲撃と攘夷事件の対応に追われた。その間モンブランは、外交政策のアドバイザー的役割を果たしていたらしい。2月末に京都御所で行われた英仏蘭公使の天皇謁見で、薩摩藩はフランス公使一行の警護と接待を担当したが、仏軍人の記録によると、一行を相国寺で出迎えたのは仏人モンブランであったという。相国寺は御所の北側に位置し、薩摩藩はその西隣りに二本松藩邸を構えていた。

神戸事件が滝善三郎の切腹により一応の解決をみた2月9日(1868年3月2日)の翌日、新政府はモンブランを駐仏総領事に任命している。外国事務総督伊達宗城の名で出されているが、薩摩藩の意向を汲んだものだろう。功労に報いる一方、それ相応の地位と引き換えに日本からの出国を暗に求めたとも言える。1867年12月2日(慶応3年11月7日)にモンブランが母親に宛てた手紙には、鉄砲と大砲の代金として1900万フランが送金される見込みであると書かれていたというから、国事多端、財政逼迫の折、薩摩藩にとっては何かと負担の大きい相手であった。

五代とともに渡欧した新納が3月15日に五代に宛てた手紙には「モンブランも願意達せし由、互に此上なく日本の大幸か、モンブラン如何の模様か」とある。新納はヨーロッパから戻るとすぐ、まだ11歳だった息子の竹之助をフランスへ留学させている。これはモンブランを頼り、モンブランに信頼を寄せてのことである。モンブランの駐仏総領事任命はモンブランと日本双方に好都合と思われたが、モンブランはなかなか日本を去ろうとしなかった。五代は4月1日より母親の病篤しということで休暇をとり、約1ヶ月間鹿児島に帰っていたが、この間もモンブランは大阪に残り、フランスやイギリスの公使たちと活発に交際していた。

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
ヴァンデワラ ウィリー『旅と政変 : 幕末明治初期を旅行したモンブラン伯 (白山伯)』「日文研叢書43巻」2009年
宮永孝『ベルギー貴族モンブラン伯と日本人』「社会志林47巻2号」2000年
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年

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五代友厚 モンブランと日本(1)

シャルル・ド・モンブラン
シャルル・ド・モンブラン Charles de Montblanc

五代友厚は、慶応元年(1865年)の滞欧中、ベルギーとの商社設立や1867年パリ万博への出展計画を練り上げたが、それらに深く関わったのがベルギー/フランス貴族のシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)である。モンブランは1833年生まれで五代より3歳年上、パリに生まれ、フランスで育った。若い頃から日本への関心が高く、最初の訪日は安政5年(1858年)で、ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵(Jean-Baptiste Louis Gros)の外交使節団の一員であった。グロ男爵はこのとき日仏修好通商条約を締結した。モンブラン自身の任務はフィリピンにおける学術調査であったとされる。1861年にも一旅行者として来日し、横浜の居留地や江戸の仏公使館に滞在していたという。

モンブランと五代が出会ったのは、慶応元年(1865年)の夏で、五代、新納久脩(刑部)、通訳の堀孝之が視察旅行のためイギリスからヨーロッパ大陸へ渡った直後のことである。五代らはベルギーでモンブラン家が所有するインゲルムンステル城(Ingelmunster Castle)に招かれ、その後も度々会ってはカンパニーの設立や万国博覧会への参加について話し合いを重ねた。富国強兵を国家の須要と考えた五代らに、モンブランの申し出は渡りに船であったに違いない。モンブランは、先に幕吏池田筑後守や柴田日向守とも接触を試みていたが冷たくあしらわれ、五代らに近づいたのは彼らを見返す魂胆もあったのだろう。この頃すでに幕府側にフランス、薩摩側とにイギリスいう構図ができ上がりつつあったが、モンブランは独自に行動したものらしい。

慶応2年春、日本に帰国した五代は長崎在勤となりパリ万博出品物の準備に奔走する。岩下方平を団長とする薩摩藩の使節団は慶応3年初めにパリ入りし、モンブランは薩摩藩一行の世話役として大奮闘した。パリ万博における薩摩藩と幕府の確執についてここでは触れないが、モンブランが薩摩のため東奔西走し、幕府に一泡吹かせたのは確かである。その甲斐あってかモンブランは、陸軍士官2名、海軍士官2名、鉱山技師2名、商人2名、従者1名、計9名を引き連れ、岩下ら使節団の帰国に同行して来日することになった。五代は上海まで彼らを迎えに行ったが、これはつまり、親英政策をとりつつある薩摩藩にとって招かれざる客となったモンブランの見張りという意味合いである。外国人らはしばらく長崎に滞在していたが、薩摩藩は長崎奉行の反対を押し切って彼らを鹿児島へ連れて出した。しかし、城下に置くわけにはいかず、五代はモンブランを伴って指宿の濱崎太平次邸に逗留するなどしていたらしい。やがて倒幕の動きが活発になると、五代は船で九州と京阪神を往復していたとみられ、モンブランもやがて京へ行くことになる。

<参考文献>
宮永孝 『ベルギー貴族モンブラン伯と日本人』「社会志林47巻2号」 2000年
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年

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