五代友厚 天和銅山と五條(足跡篇)

奈良の五條を訪れました。五條には五代友厚の経営する弘成館の出張所がありました。出張所の正確な場所は今のところわかりませんが、江戸から明治時代の町並みが残る新町と天誅組ゆかりの地を歩きました。出張所があったと考えられる明治4年(1871年)以降、五代が亡くなる明治18年の少し後までのあいだにすでに存在していた建物も数多く残っていました。

JR五条駅です。市名は五條市ですが、駅名は五条の字を使っています。
五條は大阪、和歌山と境を接し、いくつもの街道が交わる交通の要衝です。昔は吉野川の水運も重要な役割を果たしていました。

JR五条駅
JR五条駅 JR Gojou Station

高野、伊勢、河内、紀州への旧街道が交わる場所に古い道標が残っています。

道標 高野道
道標 高野道 Signpost Kouya Road
道標 伊勢道
道標 伊勢道 Signpost Ise Road

高野街道を南へ進むとナカコ将油という醤油蔵があります。明治10年創業だそうです。

ナカコ将油
ナカコ将油 Nakako Shouyu Shop

ナカコ将油の向かい側にある栗山家住宅は、慶長12年(1607年)築の国の重要文化財で、建築年代のわかる民家では日本最古ということです。現在も住居として使用しておられます。

栗山家住宅
栗山家住宅 1607年築 Kuriyama Family Residence

南側にもう一軒栗山家住宅があり、こちらは元禄9年(1696年)に建てられたもので市の指定文化財になっています。

栗山家住宅
栗山家住宅 1696年築 Kuriyama Family Residence

栗山家住宅のある新町口から新町通りに入り西へ少し進むと、山本本家酒造があります。宝永7年(1710年) の創業だそうです。

山本本家(酒蔵)
山本本家(酒蔵) Yamamoto Honke (Sake Brewery)

弘成館では、鉱山で働く職人たちのために「五条借宅旧造酒家にて」自前で造酒を試みようとしていました。「旧造酒家」がどこの酒蔵であったかはわかりませんが、江戸時代の五條は酒造りが盛んで、造酒業が10軒以上を数えた時もありました。

山本本家(酒蔵)
山本本家(酒蔵) Yamamoto Honke (Sake Brewery)
山本本家(酒蔵)
山本本家(酒蔵) Yamamoto Honke (Sake Brewery)

鉄屋橋を渡ったところにある古い建物は市口薬局です。享保元年(1716年)創業とのことです。新町はこうした江戸時代からの商家が今も軒を連ねています。

市口薬局
市口薬局 Ichiguchi Pharmacy

隣りの駐車場に書状集箱、つまりポストがありました。明治4年郵便創業当時の型を再現したもので、実際に集荷が行われています。ポストを初めて見た明治時代の人が、大切な手紙をポストに投函するには若干勇気が必要だったかもしれません。

書状集箱
書状集箱 Old Style Post

まちなみ伝承館です。明治から大正期の建築で、新町散策の拠点として2003年に改修されました。資料の展示やパンフレットの配布をしています。

まちなみ伝承館
まちなみ伝承館 Machinami Densho-kan

新町橋を渡ってしばらく歩くと新町松倉公園があります。町割を施工し、新町の礎を築いた松倉豊後守重政を顕彰する石碑が建てられています。

新町松倉公園
新町松倉公園 Shinmachi Matsukura Park
松倉豊後守重政之碑
松倉豊後守重政之碑 Monument to Matsukura Shigemasa

新町松倉公園の先に「右 おおかわ「ふなつきば跡」」の案内があります。

船着場跡
船着場跡 Old Place of River Landing Stage

大正時代の写真が壁にかかっていました。街道沿いには家がありますが、その他は田畑広がるのどかな景色です。

大正初期の五條
大正初期の五條 Old Photo of Gojou

吉野川です。和歌山へ入ると紀ノ川となり海へ注ぎます。天和銅山の銅はここから大阪へ運ばれました。新町は吉野川沿いにあり、通りのどこからでも吉野川の河原に出ることができます。

吉野川
吉野川 Yoshino River

うどん・そばの山直は創業明治15年とあります。元近鉄バッファローズの山口哲治投手の生家だそうです。

山直
山直(食事処) Yamanao

神田橋の手前にコンクリートの高架があります。建設途中だった五新鉄道の名残です。かつて五条駅と和歌山の新宮駅を結ぶ計画があり、昭和12年(1937年)に着工されたものの、社会情勢の変化により工事は中断され完成することはありませんでした。

幻の五新鉄道
幻の五新鉄道 Unfinished Goshin Railway
幻の五新鉄道
幻の五新鉄道 Unfinished Goshin Railway

江戸時代後期に建てられた五條市内最古の旅館です。五條村と二見村の間にあったことから、元は五二旅館という名でした。

山田旅館
山田旅館 Yamada Inn

新町通りから北に上がって国道24号に出ます。再び五条駅へ向かう途中に五條市立民俗資料館があります。「明治維新 発祥の地」という大きな看板が立っています。

明治維新発祥の地
明治維新発祥の地 Birthplace of the Meiji Restoration

資料館は五條代官所の長屋門だった建物です。文久3年(1863年)、現在の五條市役所にあった代官所が天誅組によって焼かれたため、幕府は翌年場所を変えてこの地に代官所を建て直しました。明治維新後は五條県庁に引き継がれ、明治10年に五條区裁判所となり、その後五條市が長屋門を譲り受けて資料館として整備したということです。

五條代官所跡 史跡公園概略
五條代官所跡 史跡公園概略 History of Gojou Magistrate’s Office

民俗資料館には天誅組に関する資料が多く展示されています。天誅組の変を倒幕、明治維新のさきがけとなる事象ととらえ、「明治維新 発祥の地」ということになったようです。天誅組は京都を発し、大阪の堺を経て、五條に到達しました。堺の旧港近くには、五代友厚が解決に尽力した堺事件の発生を記す「明治初年佛人撃攘之處」碑と「天誅組義士上陸蹟」碑が並び建っています。

天誅組行軍図 京都から五條へ
天誅組行軍図 京都から五條へ Map of Tenchu-gumi’s March from Kyoto to Gojou

文久3年8月17日(1863年9月29日)、五條代官所に討ち入った天誅組はその後追討軍に追われる身となり、本陣を天の辻に移しました。しかし、そこからも撤退を余儀なくされ、40日余りの戦闘の末東吉野村で壊滅しました。

天誅組行軍図
天誅組行軍図 Map of Tenchu-gumi’s March in Nara

五條裁判所付近の昔の写真です。五條文化博物館で見ることができます。

五条裁判所
五条裁判所 Gojou Court

次に、天誅組が焼き討ちにした最初の代官所跡を訪ねました。現在の五條市役所です。

五條代官所跡
五條代官所跡(五條市役所)Old Site of Gojou Magistrate’s Office (Gojou City Hall)
天誅組の変と五條代官所
天誅組の変と五條代官所 Tenchugumi Incident and Gojo Magistrate’s Office

昔の五條町役場の写真です。こちらも五條文化博物館で見ることができます。役所が置かれるこの場所は少し高台になっています。

五條町役場
五條町役場 Old Gojou City Hall

最後に櫻井寺を訪れました。天誅組が本陣とし、五條新政府を号した場所です。

櫻井寺
櫻井寺 Sakurai Temple

天誅組本陣跡の大きな石碑があります。櫻井寺は、最初に紹介した道標が建つ本陣交差点の南角にあります。

天誅組本陣跡
天誅組本陣跡 Old Site of Tenchu-gumi Headquarters
天誅組本陣跡
天誅組本陣跡 Old Site of Tenchu-gumi Headquarters

代官所で殺害した代官鈴木源内らの首をこの手水鉢で洗ったということです。

櫻井寺の手水鉢
櫻井寺の手水鉢 Chouzubachi at Sakurai Temple

<住所>
五條の道標:五條市五條1丁目1(本陣交差点)
栗山家住宅(1607年築):五條市五條1-2-8
栗山家住宅(1696年築):五條市五條1-3-8
ナカコ将油:五條市五條1-7-18
山本本家:五條市五條1-2-19
市口薬局:五條市本町2-6-2
書状集箱(寳満寺駐車場):五條市本町2-6-28
まちなみ伝承館:五條市本町2-7-1
新町松倉公園:五條市新町1-11-12
船着場跡:五條市新町1丁目11
山直:五條市新町1-11-9
五新鉄道跡:五條市新町1-11
山田旅館:五條市新町2-6-8
五條市立民俗資料館:五條市新町3-3-1
五條代官所跡(五條市役所):五條市本町1-1-1
櫻井寺:五條市須恵1-3-26

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五代友厚 天和銅山と五條(2)

五條
五條(大和名所図会)

五代友厚が経営する弘成館は、五條に出張所を置いて、天和銅山を中心とする奈良の各鉱山運営のための拠点としていた。

それより前、幕末期における五條は、天誅組と関わりの深い地として知られる。尊王攘夷急進派である天誅組の志士たちが、幕府直轄地である五條の代官所を襲い、櫻井寺を本陣として五條新政府を号したのが文久3年8月17日(1863年9月29日)であった。天誅組にとっては天皇の大和行幸を控えての義挙であったが、翌日の朝議、いわゆる八月十八日の政変により行幸は中止となり、天誅組は挙兵の大義名分を失った。追われる身となった天誅組は吉野の山中を転戦するもひと月余りで壊滅。この年の7月には薩英戦争があって、五代は捕虜となり解放されてなお数ヶ月間武蔵国の下奈良村に身を潜めていた。五代の後妻豊子の兄である森山茂や、五代と親しく維新後は司法官となって大阪控訴院院長などを歴任した北畠治房(平岡鳩平)らも天誅組に加わっていた。

五條出張所に関しては、五代の側近堀孝之の書簡に「和州鉱山諸職人用の酒、五条借宅旧造酒家にて波江野造酒のつもり」と書かれたものがある。波江野とは薩摩の波江野休右衛門のことで、堀と並ぶ弘成館の幹部であった。五條は江戸時代より吉野川の伏流水による酒造が盛んで、10軒以上の造酒家が建ち並ぶ時代もあったようだ。酒を自家製造しようというぐらいだから、鉱山で消費される酒量はかなりのものであったのだろう。また、波江野が五代に宛てた別の書簡には「ウヲトルス天和山近々鉄道取掛り地量等致し度」とある。ウヲトルスはアイルランド人の建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas Waters)のことで、造幣局の泉布観を設計したことで知られる。薩摩藩に雇われて奄美大島の白糖工場を建てたり、鹿児島紡績所関連の設計にもおそらく関わっていただろうから、五代はウォートルスと既知であったに違いない。天和山の鉄道建設は、結局実現しなかったようだ。

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年
五條市史調査委員会『五條市史』1958年

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五代友厚 天和銅山と五條(1)

天川坑と五條
天川坑と五條(大和地圖)

五代友厚が明治4年(1871年)に開坑した天和銅山は、吉野郡天川郷の山深い地にあって、険峻な山道を越えての往来は容易ではなかった。五代の経営する弘成館は天和山出張所に加え五條にも出張所を設け、奈良における鉱山事務全般、物資の調達、大阪との連絡をここから執り行った。

五條は吉野山地への入口として重視されていたのみならず、吉野川の水運にも恵まれ、また紀州、伊勢、河内へ通じる街道が交わる交通の要衝として栄えた。東の五條と西の二見城をつなぐ紀州街道、いわゆる新町には商家が建ち並び、現在も江戸時代からの家屋が多く残っている。新町は、関ヶ原の戦いの功績によって二見城に入った松倉豊後守重政が町割を施行し諸役を免除するなどして発展の基礎を築いたもので、五條はその後天領となって南大和の中心地となった。

天和山の鉱山経営に必要な物資が五條から運び込まれるとともに、天和山で採鉱された銅は馬に積まれ、和田の下流の西ノ谷から武士ヶ峯へ登り、矢八ヅ峠から西吉野に下って五條へと運ばれた。最盛期にはこの難路を毎日50〜60頭もの馬が行き来したという。

1862年に来日した英公館通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)は、吉野の洞川から高野山に至る道を歩いた際のことを次のように書いている。

中越を川合へと下降(中略)中谷で登山者の利用するルートは川を越えて、今では廃屋に等しい観音の寺に向かい、その後またすぐに右岸に戻る。和田で山道が分岐して川を越え、いくつかの銅山に向かう。それらは、一八六二年に開坑され、一八七二年における金属の産出量は一六五トンを超えた。

廃屋に等しい観音の寺とは、廃仏毀釈後の天河神社のことであろうか。サトウの目的地は高野山であったから、西ノ谷は通過し、山西、広瀬、滝尾、塩野、天ノ川辻、坂本、中原と西へ向かって歩いている。天ノ川辻の手前の松尾峠と中原のすぐ先の山道にも五條へ向かう分岐があったという。サトウは、山西から半マイル先の「川の深い湾曲部の上に美しくたたずむ辰見左衛門経営の小さな旅宿」で昼の休憩をしたようだ。天ノ川の不動滝のあたりであろうか。

<参考文献>
アーネスト・メイスン・サトウ『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』2017年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年

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