五代友厚 生野銀山と朝倉盛明(足跡篇)

前回見た生野銀山から市川沿いを下り、生野の町の中心に来ました。口銀谷(くちがなや)地区です。生野銀山周辺は奥銀谷と呼ばれています。

町の入口にある旧生野鉱山職員宿舎です。
生野銀山に赴任した官吏・技術者のための官舎で、最も古いものは明治9年(1876年)に建てられています。

旧生野鉱山職員宿舎
旧生野鉱山職員宿舎 Former Ikuno Mine Company Housing

日本で最初の官舎・社宅ではないかと推定されているとのこと。桟瓦葺きで築地塀を巡らせたこれらの建物は、当時ずいぶんと斬新な雰囲気を持った住宅だったようです。

旧生野鉱山職員宿舎
旧生野鉱山職員宿舎 Former Ikuno Mine Staff Quarters
甲9号
甲9号 Kou No.9

ここは甲住宅と呼ばれ、上級官吏用官舎が12棟ありました。甲住宅の他に、鉱山長社宅、乙住宅、寺の上社宅、茶畑社宅など700戸以上の社宅があったといいます。

甲社宅
甲社宅 Kou Company Housing

甲7号は志村喬記念館となっています。数々の黒澤映画に出演した志村喬氏は、生野鉱山の社宅で幼少時代を過ごしたそうです。実際に暮らしていた甲11号社宅は、現存していません。

志村喬記念館
志村喬記念館(甲7号) Shimura Takashi Museum

旧生野鉱山職員宿舎の西側は、寺町通りといって8つの寺院が連なっています。

寺町通り
寺町通りTeramachi Street

全国から労働者が集まり、代官の交代もあるため、さまざまな宗派の寺が必要になりこの寺町が形成されたのではないかということです。鉱山近代化のため派遣されたフランス人技師たちも、到着してしばらくは寺院に滞在することが多かったようです。

寺町
寺町 Teramachi

寺町にある寺院のひとつ西福寺です。西福寺には、ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)が滞在していました。

西福寺
西福寺 Saifukuji Temple
西福寺説明板
西福寺 Saifukuji Temple

寺町から少し南側に旧生野警察署の建物が保存されています。明治19年(1886年)に地元の大工がフランス人の異人館をまねて造ったということで、ペパーミントグリーンの色合いが印象的な擬洋風建築です。

旧生野警察署
旧生野警察署 Old Ikuno Police Station
旧生野警察署説明板
旧生野警察署 Old Ikuno Police Station

生野小学校横の一角に、大きな木々に囲まれて生野義挙碑が建っています。文久3年(1963年)に勤王の志士と但馬の農民が一緒になって生野代官所を占拠した生野義挙(生野の変)の事跡を伝えるためのものです。わずか3日で破陣となりましたが、この生野義挙は明治維新の魁となったと言われています。ちなみに、文久3年は薩英戦争があった年です。

生野義挙碑
生野義挙碑 Ikuno-Gikyo Monument
生野義挙碑説明板
生野義挙碑 Ikuno-Gikyo Monument

同じ場所に生野代官所跡の説明板もあります。天文11年(1542年)に山名祐豊が生野銀山経営の拠点として建てた生野城が始まりで、徳川の世になりこの城の本陣が代官所となりました。以来270年に渡り銀山経営の中心でした。

生野代官所跡
生野代官所跡 Old Site of Ikuno Magistrate’s Office

生野書院です。材木商の邸宅を改修し、資料館としています。この日は閉館していましたが、生野銀山に関する貴重な資料や書画が保存・展示されているようです。

生野書院正門
生野書院正門 Main Entrance of Ikuno Shoin Library
生野書院説明板
生野書院 Ikuno Shoin Library

そして、この生野書院の門は、鉱山長朝倉盛明の官邸の門を移築したものです。明治初年より120年ものあいだ歴代鉱山長邸に使用されていたそうです。

生野書院
生野書院 Ikuno Shoin Library
生野書院正門説明板
生野書院正門 Main Entrance of Ikuno Shoin Library

生野駅を通り過ぎ、市川へ向かいます。生野駅の瓦は、旧生野鉱山職員宿舎で使われていたのと同じ赤瓦です。

生野駅
生野駅 Ikuno Station

市川に架かる盛明橋です。元は森ヶ屋橋と呼ばれていましたが、生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)の中の一橋として架け替えられた際、当時の鉱山長朝倉盛明の功績をたたえて盛明橋と改名されたということです。初代盛明橋は木橋でしたが、現在の橋は平成11年(1999年)に架け替えられた3代目です。モニュメントは馬車をイメージしたもののようです。

盛明橋
盛明橋 Seimei Bridge
盛明橋説明板
盛明橋 Seimei Bridge

生野を離れ、姫路の飾磨に来ました。
飾磨津は生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)の発着点です。かつて建ち並んでいた煉瓦倉庫の一部をそのモニュメントとして残しています。

飾磨津物揚場跡モニュメント
飾磨津物揚場跡モニュメント Monument of Shikama-tsu Port

生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)は、コワニェの義弟シスレーにより設計され、明治6年(1873年)に竣工、明治9年に完成しました。生野銀山と飾磨津の間、全長約49kmを結ぶ馬車専用道路で、当時ヨーロッパで使用されていたマカダム式舗装を始めとする最新の土木技術により、排水性が高く、雨などの天候に左右されない堅固な道路を敷設しました。朝倉盛明は、馬車道の費用と効果について工部省へ説明を尽くし、実現にこぎつけました。

銀の馬車道説明板
銀の馬車道説明板 Explanation Board of Old Silver Mine Carriage Road
飾磨津付近
飾磨津付近 Near Shikama-tsu Port

飾磨津物揚場跡モニュメントの近くに「魚屋堀跡 志士上陸地」と刻まれた石碑があります。この志士上陸というのは、文久3年の生野義挙にあたり、長州を出航した尊王攘夷派の志士たちがこの地に上陸したことを指しています。文久3年10月9日のことでした。この時すでに大和天誅組は破陣しており、生野の義挙は中止と決行の両論が沸騰したといいます。

魚屋堀跡志士上陸地碑
魚屋堀跡志士上陸地碑 Monument of Uoyabori

朝倉盛明は鉱山長を退官後、京都に住んでいました。京都にある朝倉盛明の墓所を訪れました。

京都大学そばの百万遍知恩寺です。

百萬遍知恩寺
百萬遍知恩寺 Hyakumanben Chionji Temple
百萬遍知恩寺 Hyakumanben Chionji Temple

墓地の入口から少し進んだ左手に、朝倉家のお墓がありました。

朝倉家累代之墓
朝倉家累代之墓 The Tomb of the Asakura Family

「大正十五年一月建立」とあります。朝倉盛明が亡くなった翌年です。

朝倉家累代之墓
朝倉家累代之墓 The Tomb of the Asakura Family

<住所>
旧生野鉱山職員宿舎・志村喬記念館:朝来市生野町口銀谷697番1
西福寺:朝来市生野町口銀谷506
旧生野警察署:朝来市生野町口銀谷523
生野義挙碑・生野代官所跡:朝来市生野町口銀谷
生野書院:朝来市生野町口銀谷356
盛明橋:朝来市生野町口銀谷

飾磨津物揚場跡モニュメント:姫路市飾磨区宮180
魚屋堀跡志士上陸地碑:姫路市飾磨区大浜25

朝倉盛明之墓:京都市左京区田中門前町103(百万遍知恩寺)

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五代友厚 生野銀山と朝倉盛明(2)

明治9年の生野銀山
明治9年の生野銀山 Ikuno Mine in 1876(『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』より)

慶応3年(1867年)に帰朝した朝倉盛明は、薩摩藩開成所に勤務したが、慶応4年初めに中井弘が五代友厚に宛てた手紙には「モンブラン・朝倉同道ならば望外なり」とあるから、モンブランの通訳などもしていたようだ。薩摩藩英国留学生を五代とともに引率した寺島宗則(松木弘安)は、この頃外国事務局判事として横浜に駐在していて、8月に「当港仏通事なく朝倉静五を此方へ御廻し下されたし」と五代に手紙を書き送っている。五代はこれを断ったとみえ、朝倉はこの後すぐ会計官鉱山司判事試補に抜擢され、仏人鉱山師ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)とともに生野銀山へ赴くことになった。人選には五代も深く関わっていたものと思われる。間もなく朝倉は鉱山長となり、コワニェと二人三脚で官営生野鉱山を日本一先進的な鉱山へと導くのである。

朝倉が作成した報告書「生野鉱山景況書」によると、朝倉とコワニェは、明治元年(1968年)9月に「太盛各坑を始め金香瀬其他近傍中瀬金山等悉く点検し」、10月に「登阪の上、先ず銅鉱開拓の議を定め、溶鉱器械購入のため横須賀に至り日ならずして帰阪」、12月に「再び生野に到り、山相測量より建築の地形、水路等を検閲す」とある。明治2年正月には出張鉱山司仮役所を設置し、2月に鉱山学校を開設した。着任早々2人が非常な熱意をもって仕事に取り組んでいたことがわかる。

明治4年10月、生野銀山で播但農民一揆に端を発した焼討ち事件が発生する。コワニェは器械購入と技師雇用のためフランスに一時帰国中、朝倉も大阪出張で不在の中の出来事であった。3年余りを費やして建設した建物と器械設備のほとんどは灰燼に帰した。首謀者は捕らえられ、斬首・絞罪を含む厳しい処分が行われたという。朝倉は官の命を受け、コワニェが12月に帰任するや生野銀山の再建に邁進した。製鉱所のみならず、仏人技師たちのための異人館建設や、物資輸送用の「生野鉱山寮馬車道」なども整備した。さらに仏人医師を雇い常駐させたことは、朝倉が元々医者であったことと無関係ではあるまい。

明治9年、ようやく第二期建設計画を完遂し落成式が行われる。工部卿伊藤博文が臨席した。翌年1月にコワニェは明治政府との契約を終えフランスへ帰国、10年間共に歩んできた朝倉は寂しく感じたのではないだろうか。

五代が本格的に鉱山事業に乗り出し、弘成館を設立したのが明治6年である。五代は生野銀山に連なる神子畑の鉱山開発に関わったとも言われ、朝倉とのつながりは終生続いていたと考えられる。明治11年3月15日に朝倉が五代に送った書簡には「当鉱月々七、八千円位の純益あり」とある。五代が所有し最も利益を上げていた天和鉱山が年に3万円ほどの利益であったというから、生野銀山がいかに巨なる山であったかがわかる。

生野銀山は明治21年に帝室財産となり、朝倉は、明治26年(1893年)に宮内省御料局理事・生野支庁長として退官した。その後京都に隠棲し、大正14年(1925年)1月24日、81歳で亡くなっている。

<参考文献>
生野町中央公民館「歴史をつなぐ会」編『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』1994年
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
太田虎一『生野史 校補 鉱業編』1962年

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五代友厚 生野銀山と朝倉盛明(1)

朝倉盛明
朝倉盛明 Asakura Moriaki

御雇外国人ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)とともに生野銀山の近代化に精力を注いだのは、薩摩出身の鉱山長朝倉盛明(田中静洲、田中静吾)であった。朝倉は天保14年11月23日(1844年1月12日)、薩摩藩士田中伊平衛の次男として生まれ、元の名は田中清洲といった。五代より8歳年下である。慶応元年(1865年)に薩摩藩英国留学生として渡欧した際、朝倉省吾という変名を与えられ、帰国後も朝倉姓を名乗った。

朝倉は、10歳の頃より萬膳玄正に医学を学ぶ俊才で、その後石川確太郎に蘭学、長崎に出て松本良順やポンペから医学を学んだ。元治元年(1864年)には薩摩藩開成所で句読師を務めるようになり、このとき五代の上申書が採択されて派遣が決まった薩摩藩英国留学生の一人に選ばれた。朝倉はイギリスに滞在した後、同じく留学生の一人で同い年の中村宗見(博愛)とフランスへ留学先を移した。パリのシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)宅に寄宿しながらフランス語や鉱山学を学んだという。朝倉と中村はともに医者で、留学先でも朝倉は医学、中村は化学を学ぶ予定であったが、帰朝後朝倉は鉱山長、中村は外交官として維新後の日本を支えることになったのは、二人にとって思いがけない運命であったかもしれない。

慶応3年(1867年)のパリ万博で、朝倉と中村は、薩摩藩が出展したブースの現地対応や通訳の任を果たした。薩摩藩の出展は、五代が渡欧中にモンブランと協調し道筋をつけたものであったが、日本が初めて正式に参加したこの万博で、幕府とは別に薩摩藩が独自のブースを設けたことは大いに物議を醸した。朝倉は、会期途中の慶応3年夏に帰国の途に就いている。

<参考文献>
生野町中央公民館「歴史をつなぐ会」編『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』1994年
岩松暉『実戦的地質学の源流としての薩摩」『鹿児島県地学会誌 62』1989年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年

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