五代友厚 咸臨丸と富岡(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Kanrinmaru and Tomioka (Footprints)

天草下島北西部の陸繋島、富岡に行きました。

I visited Tomioka which is located in the northwest of Shimoshima Island of Amakusa, Kumamoto prefecture.

富岡港で見かけた船です。
くまもんが描かれているとおり、ここは熊本県です。天草諸島は、長崎、熊本、鹿児島に囲まれた島々ですが、熊本県とのみ橋でつながっています。江戸時代初めに起こった島原・天草の乱以降、天草は幕府直轄の時代が長く続きましたが、明治時代にいったん長崎県に組み込まれ、最終的に熊本県となりました。長島や獅子島も天草諸島の一部と言えるかもしれませんが、これらは鹿児島県に属しています。
この船は、熊本県立天草拓心高等学校海洋科学科の練習船だそうです。

熊本丸
熊本丸 Kumamoto-maru

高台にお城が見えます。富岡城跡です。まず、ここを目指します。

富岡城
富岡城 Tomioka Castle

城跡に向かう途中、長く連なる石積みの堤跡がありました。これは百間土手と呼ばれていて、城の守りを堅固にするため当時の入江に土手を築いて汐を堰き止め、内堀を造ったものだそうです。

百間土手
百間土手 Hyakkendote
百間土手
百間土手 Hyakkendote

稲荷神社のたくさんの鳥居をくぐりながら坂道をのぼって行きます。

富岡稲荷神社
富岡稲荷神社 Tomioka Inari Shrine

富岡城の本丸跡に着きました。広場の一角に城を再現した建物があり、ビジターセンターになっています。また、二の丸長屋を改築した苓北町歴史資料館もあります。

富岡城跡
富岡城跡 Old Site of Tomioka Castle

広場には、「日本の恩人」と「天草の恩人」とされる4人の銅像がありました。

日本の恩人 天草の恩人
日本の恩人 天草の恩人 Benefactors of Japan, Benefactors of Amakusa

こちらは日本の恩人、勝海舟と頼山陽(らいさんよう)です。勝海舟は、薩摩藩の西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を実現させた人物として有名です。陽頼山は『日本外史』という歴史書を書いた人物で、幕末の尊王攘夷派の志士たちに大きな影響を与えたといいます。

勝海舟と頼山陽
勝海舟と頼山陽 Katu Kaishu and Rai Sanyo

台座の説明によると、勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練で二度富岡を訪れており、再訪時は、榎本武揚、五代友厚、カッテンディーケらそうそうたる14名のメンバーであったということです。安政3年の翌年3月に再訪とありますが、カッテンディーケが来日したのは安政4年8月(1857年9月)で、いろいろな文献からも、安政3年とあるのは安政4年の間違いでしょう。また、カッテンディーケの記録によれば、富岡を訪れたのは安政5年4月(1858年6月)ということになっています。
私自身は、五代友厚が天草行きの航海に加わったのかどうか確認できていませんが、富岡には関係する資料が残っているのかもしれません。

勝海舟説明板
勝海舟説明板 Explanation Board of Katsu Kaishu

勝海舟が、宿泊先の鎮道寺の柱に残したという落書きがこちら。「日本海軍指揮官 勝麟太郎」とあります。幹部候補とはいえまだ伝習生の一人だったはずですが、将来は日本海軍を率いるという意気込みだったのでしょうか。このとき勝海舟は30代半ばで、五代友厚より13歳年上です。もうひとつは勝義邦の名で書かれています。

勝海舟の落書き
勝海舟の落書き Katsu Kaishu’s Poem

こちらは天草の恩人、鈴木重成と鈴木正三です。

鈴木重成と鈴木正三
鈴木重成と鈴木正三 Suzuki Brothers – Shigenari and Shozan

重成は、天草が天領となった寛永18年(1641年)に初代代官として富岡に赴任。諸説ありますが、島民の税の負担を軽減するため幕府に石高の半減を建言したが聞き入れられず、嘆願のため自刀したと伝えられます。正三は重成の兄で、僧侶でした。重成は兄を呼び寄せ、仏教の教えにより島の安寧を取り戻そうとしました。

鈴木重成と鈴木正三
鈴木重成と鈴木正三 Suzuki Shigenari and Suzuki Shozan

苓北町歴史資料館のジオラマを見ると、城の南側に鎮道寺を含め寺がたくさん並んでいます。遠見番所も置かれていたようです。

富岡のジオラマ
富岡のジオラマ diorama of Tomioka

富岡城についての説明板です。通詞島という島があるようです。通詞(通訳)が住んでいたのでしょうか。

富岡城説明板
富岡城説明板 Explanation Board of Tomioka Castle

方位を示すタイルがありました。天草からは、江戸より上海の方が近いのです。長崎までたったの30kmです。

富岡城からの方位
富岡城からの方位 Bearing from the Tomioka Castle

富岡城からの景色は本当にすばらしく、真っ青な空と真っ青な海に美しい砂嘴が浮かび上がります。砂嘴は巴崎と呼ばれ、ここはハマジンチョウという淡い紫色の花を咲かせる植物の群生地だそうです。

富岡城からの景色
富岡城からの景色 View from Tomioka Castle

富岡城図と城歴が書いてあります。たいへん立派な城だったようですが、島民が維持管理の負担を強いられていると感じた戸田忠昌が規模を縮小し、三の丸に陣屋(代官所)が置かれるだけとなりました。

富岡城の城歴
富岡城の城歴 History of Tomioka Castle

富岡城を下りて、富岡稲荷神社の前を右手へ進むと、別の鈴木重成公の銅像がありました。島の人々は、一揆の後に荒れ果てた島の復興に尽力した鈴木重成に心服し、重成の死後、島の各地に鈴木神社を建てて崇拝したそうです。

天草代官鈴木重成公
天草代官鈴木重成公 Suzuki Shigenari, Governor of Amakusa

さらに進むと袋池が見えてきます。港と城に挟まれたかなり大きな池です。百間土手の内側にあたり、溜池と堀の役目を果たしています。

袋池
袋池 Fukuroike Pond

袋池には大蛇伝説なるものがあり、水面に木の葉が一枚も落ちていないのは、この伝説によるものと考えられているそうです。

袋池伝説
袋池伝説 Legend of Fukuroike Pond

勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所の伝習生とオランダ人教官が宿泊した鎮道寺へ向かいます。

鎮道寺 案内標識
鎮道寺 案内標識 Sign for Chindoji Temple

向陽山鎮道寺です。
小山のふもとにあります。ここから港と反対側へ下りていくと砂浜があり、海水浴場になっています。伝習生らは海水浴を楽しんだといいますから、きっとこの砂浜で泳いだのでしょう。

鎮道寺
鎮道寺 Chindoji Temple

勝海舟が安政四年と翌年の2度にわたり富岡に来航し、当寺に止泊した際の落書きが本堂の柱に残っている、と書いてあります。

向陽山鎮道寺
向陽山鎮道寺 Chindoji Temple

りっぱなお寺です。東本願寺が本山とのことなので、真宗のお寺です。本堂の中は拝見していませんが、希望すれば勝海舟の「落書き」を見学させてもらえるようです。

鎮道寺本殿
鎮道寺本殿 Chindoji Temple
鎮道寺由緒
鎮道寺由緒 History of Choindoji Temple

外海に面した天草の海は紺碧で、抜けるような青空と相まってこの上ない美しさです。

長崎
長崎 Nagasaki

今も富岡と長崎は船で行き来することができます。富岡港を出た高速船は、およそ45分で長崎県の茂木港に到着します。茂木から長崎市内へはバスで30分足らずの距離です。

苓北観光汽船
苓北観光汽船 Reihoku Kanko Kisen

<住所>
富岡ビジターセンター:天草郡苓北町富岡字本丸2245-15
苓北町歴史資料館:天草郡苓北町富岡2245-11
富岡稲荷神社:天草郡苓北町富岡
鎮道寺:天草郡苓北町富岡2452

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五代友厚 咸臨丸と富岡(2)
Godai Tomoatsu, Kanrinmaru and Tomioka (2)

カッテンディーケ
ホイセン・ファン・カッテンディーケ Huyssen van Kattendyke

長崎海軍伝習所の教育団長ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)率いる咸臨丸が、天草富岡へ二度目の航海を行なったのは、安政5年4月26日(1858年6月7日)である。今回は鵬翔丸も共に帆走した。五代友厚が富岡に行ったとすれば、このときの航海だろうか。伝習所の訓練航海は、総じて幕生が優先で、諸藩の伝習生の参加はなかなか叶わなかった。このため西洋技術の導入に熱心な佐賀藩では、自藩の洋式船を用意して自前の訓練も行なっていた。また、佐賀藩の派遣する伝習生はみな蘭学に長け、他藩に比して習熟が早かったという。

梅雨時であったせいか、海に出ると船は豪雨と暴風にみまわれた。激しい揺れに生徒たちは皆船酔いにかかったという。大時化(しけ)の後ようやく富岡に入港すると、教官らと勝海舟をはじめとする伝習生たちは、今回も港近くの鎮道寺に宿泊した。勝海舟は、またもや寺の柱に落書きを残している。カッテンディーケは、勝海舟を「オランダ語をよく解し、性格も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた」とみる一方、「彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかをすぐ見抜いてしまった」とも言っている。

富岡には砂浜の連なる場所があり、一行は海水浴も楽しんだようだ。やがて天候が再び険悪となってきたため、5月1日(1858年6月11日)に富岡を出帆しすぐに長崎へ帰った。その折、海上で一隻の洋式船を見かけたが、マストに翻る旗は肥前のものだったという。長崎へ戻ると町は端午の節句の用意で忙しく、鯉のぼりが揚げられ、お祭り気分で満たされていた。カッテンディーケは、江戸から鵬翔丸の出帆を極力早めてくれとの報を受け取ったため、帰崎10日後に再び出帆し、江戸へ向かう鵬翔丸を咸臨丸に曳航させて鹿児島の山川へ向かった。

<参考文献>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
秀島成忠編『佐賀藩海軍史』1917年

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五代友厚 咸臨丸と富岡(1)
Godai Tomoatsu, Kanrinmaru and Tomioka (1)

天草地図
天草 Amakusa (作成年、作者不詳)

天草下島北西の富岡へ、長崎海軍伝習所の練習船が二度寄港している。うち一回の航海には五代友厚も加わっていたかもしれない。

天草は、中世には天草五人衆と呼ばれた土豪たちが勢力をふるっていたが、江戸時代になると関ヶ原の戦いで功績を挙げた肥前唐津藩の寺沢広高の所領となった。寺沢家のキリシタン弾圧と重税に堪えかねた領民は、天草四郎とともに一揆を起こす。乱の後、天草は因幡の山崎家治が治めるところとなり、このとき富岡城が大きく改修された。寛永18年(1641年)以後は天領、つまり幕府直轄地となり、初代代官鈴木重成が富岡城で執務を行う。一時私領となるも、寛文11年(1671年)から明治維新まで、富岡城三の丸は天領代官所として機能していた。

長崎海軍伝習所の咸臨丸が、最初に富岡に入港したのは、安政4年10月9日(1857年11月25日)である。長崎海軍伝習所の教育団長ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)は病気のため同行できなかったというが、航海は万事好成績を収めたと報告を受けている。船長役は勝海舟(麟太郎)で、長崎在勤の目付松平久之丞康正や長崎海軍伝習所取締の木村図書喜毅も乗り込んでいた。第一夜は富岡、第二夜は須口に停泊し、一行は天草で二晩を過ごして長崎へ帰還した。富岡では、オランダ人教官3名、日本人伝習生18〜19人が鎮道寺に泊まったという。鎮道寺の柱には「日本海軍指揮官 勝麟太郎」という落書きが残っている。

一行は、富岡で測量をなし見取り図を作るなどした。目付の松平久之丞は代官所を訪ねている。この頃の富岡は、家数500軒余り、住民は3000人以上、石炭も出たようだ。カッテンディーケは「この辺一帯は、山が多く長崎付近と大して相違がない。よく耕してあり、住民は裕福なように見受けられる」と言っている。

<参考文献>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
河北展生他『木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡』「近代日本研究 (5)」 1988年
松田唯雄『天草近代年譜』1973年

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