五代友厚 生麦事件(足跡篇)

JR鶴見線の国道駅から京浜急行本線の生麦駅まで、生麦事件の起こった旧東海道沿いを歩きました。

国道駅は、名前も印象的ですが、駅のつくりも印象的です。今は薄暗く人通りも多くはありませんが、白壁のアーチが連なる高架下は、昭和5年(1930年)に建てられたときとほとんど変わらぬままということで、開業当時はかなりモダンな雰囲気だったと思われます。高架下には臨港デパートという商業施設が入っていた時期もあったそうです。ドラマのロケ地としてもよく使われているようです。

国道駅
国道駅 Kokudou Station

駅を出て、西に向かって旧東海道を歩きます。まっすぐにのびる見通しのよい道です。今は埋立地が広がっていて海は遠くなっていますが、魚河岸は健在で、漁業が盛んな地であることがわかります。昔は、海沿いで景色のよい、歩いたり休憩したりするのに気持ちのよい道であったのではないかと想像します。

旧東海道
を旧東海道 Old Toukaidou Street

このあたりが、生麦事件の発生現場と伝えられるところです。「生麦事件発生現場」の説明板があったようですが、このときは一角が工事中で説明板は見つかりませんでした。生麦4丁目から3丁目に差しかかる付近です。薩摩藩の400余名の行列は江戸から西へ、遭遇した4人のイギリス人は、川崎大師を目指して東から西へ向かっていました。

生麦事件発生現場付近
生麦事件発生現場付近 Near the site of the Namamugi Incident

さらに西へ向かって歩きます。赤い鳥居の向こうにある神社は神明社です。

神明社
神明社 Shinmeisha Shrine

「蛇も蚊も」という、この神社で300年も前から続く行事があるそうです。疫病が流行した際、萱でつくった蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことが起源だということです。神社は、現在公園の中に建っていますが、公園にはカラフルな蛇のモニュメントもありました。

蛇も蚊も
蛇も蚊も Both Snakes and Mosquitoes
生麦神明公園 蛇のモニュメント
生麦神明公園 蛇のモニュメント Namamugi Shinmei Park Snake Monument

さらに西へ進み、高速道路が見えてきた先に「生麦事件碑」があります。キリンビール横浜工場の一角です。

生麦事件碑
生麦事件碑 Monument of Namamugi Incident
キリンビール横浜工場
キリンビール横浜工場 Kirin Brewery Yokohama Factory

祠の中に石碑がおさまっています。石碑は明治16年(1883年)に建てられたものだそうです。4人のイギリス人のうち、唯一亡くなったチャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson)は、事件発生現場から馬に乗ったまま逃げ、この場所でついに息絶えたということです。毎年、生麦事件の起こった8月21日の午後2時から、生麦事件顕彰会により追悼記念祭が行われているそうです。

生麦事件碑
生麦事件碑 Monument of Namamugi Incident
生麦事件碑
生麦事件碑 Monument of Namamugi Incident

リチャードソンは、10年近く上海に在住し、貿易商や上海〜長崎間の定期航路を営んでいました。財をなし、イギリスへの帰国を決めていましたが、帰国の前にしばらく日本に立ち寄ることを思い立ったようです。事件が起こる8月21日(1862年9月14日)の約1ヶ月前から横浜の知人の家に逗留していたということなので、日本に到着したのは7月中旬から下旬あたりでしょうか。

ちなみに、文久2年の5月上旬から7月上旬にかけ上海にいた五代は、5月17日(1862年6月14日)に、五代、高杉晋作、中牟田倉之助らで英人リチャードソン所有の蒸気船を見に行っています。千歳丸の船長の名もリチャードソンでしたし、ありふれた名前なので、どのリチャードソンの船であったかは不明ですが、生麦事件のリチャードソンと千歳丸の乗員が、上海のどこかで出会っていたとしても不思議ではありません。

生麦事件碑説明板
生麦事件碑説明板 Explanation Board of Namamugi Incident

最後に、生麦事件碑のそばの案内図にもある「生麦事件参考館」を訪ねます。

生麦事件碑付近 Near the site of Namamugi Incident

生麦事件参考館は、現在は常時開館しているわけではないようです。事前に電話で予約をして見せていただきました。

生麦事件参考館
生麦事件参考館 Namamugi Incident Museum

生麦事件に関係する資料がところ狭しと並べられ、珍しい資料もたくさんあって大変興味深い資料館です。浅海武夫館長の講演会のビデオを拝聴することができるのですが、これが語り口といい内容といい、生麦事件の現場に立ち会っているかのように引き込まれます。

生麦事件参考館
生麦事件参考館 Namamugi Incident Museum

生麦事件参考館発行の冊子もあります。これを読むと、薩摩一行は、この日神奈川の宿で休息をとる予定だったが、イギリスと交戦にでもなれば村に迷惑がかかると考えた小松帯刀の命令で、神奈川は通過して保土ヶ谷へ直行、また、山口金之丞を今朝発ったばかりの江戸の薩摩屋敷に遣わし、事件のことを報告させたとあります。五代は、江戸でこの事件のことを聞き及んだのでしょうか。

ドキュメント生麦事件
ドキュメント生麦事件 Document Namamugi Incident

生麦事件参考館から生麦駅へはほんの数分の距離です。

生麦駅
生麦駅 Namamugi Station

<住所>
生麦事件発生現場:横浜市鶴見区生麦4-25
神明社:横浜市鶴見区生麦3-13-37
生麦事件碑:横浜市鶴見区生麦1-16
生麦事件参考館:横浜市鶴見区生麦1-11-20

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五代友厚 生麦事件(2)

生麦村英人遭難地略図
生麦村英人遭難地略図 (薩藩海軍史 中巻より) Namamugi Incident Site

約2ヶ月の上海滞在中に、五代友厚は蒸気船サー・ジョージ・グレー号(Sir George Grey)を購入し、薩摩藩はこれを青鷹丸と名付けた。一行が帰国の途についたのは7月5日であったが、悪天候などもあって長崎に到着したのは7月14日。上海ではコレラが流行し衛生状態も悪かったため、現地で乗員3名がコレラの犠牲となった。帰国後も体調の優れない者が多かったようだが、五代は蒸気船の購入と清国の状況を報告すべく、すぐさま江戸へ向かう。

長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が山田亦介と兼重譲蔵に宛てた文久2年8月13日付の手紙によれば、五代はこの日金谷にいた。木戸は夜7時ごろ(酉之半刻)金谷に到着し、すぐに五代を訪ね、8時ごろ(五つ時)より数時間話し込んで、この手紙を書いているのは夜中の2時(八つ時)とある。木戸は「三郎様御発駕」、つまり島津久光が江戸を出発する日を五代に尋ねたが、五代は知らなかったようだ。しかし、その後定宿から「十七日廿一日両日中に御発駕」との情報を得る。五代は木戸らと同道し、江戸に着いたら直ぐに薩邸へ誘引すると申し出た。久光の出発前に到着できるよう、8月14日に三島、15日に藤澤、16日昼に江戸着という算段であった。

木戸は五代について「今日迄之次第逐一吐露仕候処、五代大に同意之趣に付、委細之次第小松(帯刀)中山(尚之介)大久保(利通)等へも相談し、屹度三郎様御承知被成候様周旋仕度段申居申候」と伝えている。手紙には、牧兵助という薩藩士の荷物を見かけたが、これは堀小太郎の変名ではないかと五代に尋ねたことや、五代の下人が「大坂より三郎様御伺に参り候人夫とて五十人程止宿仕候よし其ものとも之話に三郎様は今度木曽路御登りに相成候」という話を聞いて帰ってきたことなども記されている。この前年に薩摩の芝藩邸は放火の被害にあっているが、実はこれが藩主の参勤を遅らせるための自焼行為であったことが幕府に知れ、堀小太郎(伊地知貞馨)は主犯格として藩の処分で帰国を命じられていた。こうした薩摩藩の一連の行為に、長州藩はかなり神経を尖らせていたようだ。

木戸は、金谷を出発後、同じ日付で再び兼重らへ手紙を送っている。兼重は長州藩世子毛利元徳(定広)に随従し、8月3日に京を出て江戸へ向かっていた。世子には是非19日に江戸に到着して、すぐに勅使に面会して欲しいと言い、また「三郎様にも御発駕御延引にて世子君と両三度は少くとも是非四五度位は御互に御往来被爲成候て御自説をも御双方御頼被爲成度」とあり、薩長が互いに自論を吐露すべきであると述べている。

木戸は予定通り16日に江戸へ到着し、勅使の旅館と薩摩藩邸の間を往来して周旋。遅れて18日に品川に到着した毛利元徳は、19日に勅使の大原重徳と島津久光を訪ねるが面会叶わず、20日にようやく両人と会って話をした。しかし、木戸の望んだ四、五度の往来は実現せず、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老職就任を見届けた久光は、予定通り8月21日に江戸を発した。その日の午後2時ごろ、薩摩藩の一行400人余りは生麦村通り過ぎようとしていた。そして、チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson)らイギリス人4人が、この行列に騎馬のまま入り込み、薩摩藩士に斬りつけられる事件が起こる。生麦事件である。

<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
日本史籍協会編『木戸孝允文書 一』1929年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
山口県『防長歴史暦 中』1943-1944年

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五代友厚 生麦事件(1)

生麦之発殺
生麦之発殺 早川松山圖 The Namamugi Incident, Hayakawa Shouzan

文久2年、五代友厚は上海へ渡航した。4月29日(1862年5月27日)に長崎を出港し、上海に2ヶ月ほど滞在する間に、薩摩藩のため蒸気船を購入する。幕船千歳丸に乗船するにあたり、五代は3月16日に鹿児島を出発して東上途中にあった島津久光を追い、その許可を得たという。

久光は、馬関(下関)より蒸気船天佑丸に乗船し、1000人もの藩兵を率いて4月2日に播磨の室津に上陸した。五代は長崎在勤であったから馬関で合流したのかもしれない。御船奉行副役であったから、天佑丸に同船して随行した可能性も高い。上海で新たな蒸気船を購入するにあたり資金も入用であるから、そうした話し合いもあったであろう。

天佑丸は原名をイングランド号といい、万延元年12月(1861年2月)に薩摩藩が12万8000ドルで購入した。川南清兵衛と五代が長崎で買入れに関わっている。生麦事件を発端とした文久3年の薩英戦争の際、五代は天佑丸の船長であったが、船はイギリス艦隊により拿捕され焼失している。

文久2年4月16日に入京した久光は、公武合体による幕政の改革をはかるため、改革趣意書九箇条を朝廷に呈した。勅使として公卿の大原重徳をたてると、久光はその護衛ということで兵を率いて5月21日に京を発ち、幕府改革三事策をもって江戸へ向かう。三事策とは、将軍が上洛して国是を議する策、五大老を設置して国政に参与せしめる策、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽(慶永)を大老職となす策のことである。

一方、五代は、文久2年4月27日(1862年5月25日)に水夫として千歳丸に乗り込み、4月29日長崎を出帆、5月6日に上海に到着した。千歳丸には長州藩の高杉晋作も乗り込んでいた。到着して1ヶ月が経った頃、五代は郷里から受け取った手紙で、4月23日に起こった寺田屋事件のことを知る。高杉に話すと、高杉は慨然として、直後に蘭館で地図と短銃を求めたという。

<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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