五代友厚 親兄弟(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Parents and Siblings (Footprints)

鹿児島の五代友厚像と五代家の墓を訪ねました。

I visited Godai Tomoatsu Statsu and the grave of the Godai Family in Kagoshima.

鹿児島市の泉公園です。朝日通りにあります。

泉公園
泉公園 Izumi Park

朝日通り

泉公園の五代友厚像です。りりしいです。

鹿児島市泉公園の五代友厚像
鹿児島市泉公園の五代友厚像 Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima
鹿児島市泉公園の五代友厚像
鹿児島市泉公園の五代友厚像 Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima
士魂商才
五代友厚像説明板 Explanation Board of Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima

銅像の前にある建物は鹿児島県産業会館です。商工業関係の経済団体が一堂に集まった施設ということです。

鹿児島市泉公園の五代友厚像
鹿児島市泉公園の五代友厚像 Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima

銅像は、1961年に大阪の篤志家坂岡勇治氏から寄贈されました。坂岡勇治氏は、大阪北浜の証券会社で専務をつとめていた人のようです。出生地の城ケ谷に近く正面に桜島を望めることから、銅像は当初長田陸橋に設置されていましたが、交通量の増加により環境が変わったため、1981年にこの泉公園に移設されたということです。

鹿児島市泉公園の五代友厚像碑文
鹿児島市泉公園の五代友厚像碑文 Inscription of Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima

一応、横からの姿も。

鹿児島市泉公園の五代友厚像
鹿児島市泉公園の五代友厚像 Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima
鹿児島市泉公園の五代友厚像
鹿児島市泉公園の五代友厚像 Godai Tomoatsu Statue at Izumi Park, Kagoshima

市役所前バス停へ向かいます。朝日通りと市電が走る道路が交差するところに南日本銀行本店があります。昭和12年(1937年)竣工の建物で国の登録有形文化財に登録されています。

南日本銀行本店
南日本銀行本店 Minami Nippon Bank Headquarters

南日本銀行を左に見ながら北へ少し歩くと市役所前バス停です。
バス停のすぐ先に鹿児島市庁舎本館があります。この重厚な建物も昭和12年(1937年)竣工の登録有形文化財です。中央に掲げられている島津家の家紋と似たマークは、鹿児島市の市章だそうです。

鹿児島市庁舎本館
鹿児島市庁舎本館 Kagoshima City Hall
鹿児島市章
鹿児島市章 Kagoshima City Emblem

鹿児島市役所

市役所前バス停から3番線の市営バスに乗り、坂元郵便局前で降りました。

坂元郵便局前バス停
坂元郵便局前バス停 Sakamoto Post Office Bus Stop

バス停から少し坂をのぼったところに坂元墓地があります。広大です。鹿児島のお墓はどこもとてもきれいに掃除され、常にたくさんの花が供えられています。

坂元墓地
坂元墓地 Sakamoto Cemetery, Kagoshima

五代家の墓がありました。

五代家之墓
五代家之墓 Grave of the Godai Family
五代家之墓と五代友厚記念碑
五代家之墓と五代友厚記念碑 Grave of the Godai Family and Monument of Godai Tomoatsu

明和7年(1770年)から始まり、五代友厚のお兄さんの名前までが刻まれています。平成元年(1989年)に不断光院からこの坂元墓地へ改葬したそうです。

墓誌名
墓誌名 Epitaph

墓石の横に五代友厚記念碑もありました。五代友厚の功績と、友厚の墓は大阪阿倍野霊園にある旨が書かれています。

五代友厚記念碑
五代友厚記念碑 Monument of Godai Tomoatsu

ここでも温泉に。バス停の前にいい温泉がありました。

坂元温泉
坂元温泉 Sakamoto Onsen

<住所>
五代友厚像:鹿児島市泉町5(泉公園内)
南日本銀行本店:鹿児島市山下町1-1
鹿児島市庁舎本館:鹿児島市山下町11-1
坂元墓地:鹿児島市坂元町
坂元温泉:鹿児島市坂元町18-19

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五代友厚 親兄弟(2)
Godai Tomoatsu, Parents and Siblings (2)

新訂万国全図
新訂萬國全圖 高橋景保作 1816年(国立国会図書館デジタルコレクション) World Map by Takahashi Kageyasu, 1816

五代友厚の兄徳夫(競太、友健とも)は、父秀堯と同じ漢学者で、武骨一徹、鎖国派で、開明的な友厚とはあまり反りが合わなかったらしい。直接やり取りした手紙も見当たらない。城ケ谷の邸が西南戦争の兵火で焼け、友厚が新宅を贈ろうとしたが徳夫が断ったという話もある。

元薩摩藩士折田年秀の日記には、五代友厚と徳夫双方の名前が出てくる。折田は薩英戦争の砲台築造や鹿児島紡績所の技師館建設にたずさわり、明治6年(1873年)から兵庫の湊川神社の宮司となった。漢詩も書いた。友厚については、明治18年に大阪で執り行われた友厚の葬儀に駆けつけたこと、徳夫については、明治26年に「梅花廿詠」の原稿を依頼したことなどが書かれている。「御長屋にて五代徳夫に面会し、関ヶ原前後の談をなして帰る」ともあるから、この頃徳夫は長屋に住んでいたのかもしれない。

姉の広子は篠原伊平治に嫁した。西南戦争の折、篠原家も罹災したようで、友厚は家屋造営を申し出ている。

友厚は、妹信子とその夫である祁答院重之に連絡を取ることが最も頻繁で、兄姉への贈物を祁答院家を通じて送ることもあった。祁答院重之は明治3年に漢学掛授読を拝命したが、その後、友厚のもとで鹿児島の羽島金山や鹿籠金山の運営に関わっている。重之と信子の息子、友厚の甥である祁答院重義は、20歳まで大阪の弘成館にいた後、鹿児島に生陽館を設立して長崎の波佐見金山を所有するなどした。

五代友厚の娘婿、五代龍作は鹿児島の山ケ野金山在勤中に、不断光院の五代家の墓碑をたずね拝したという。不断光院はもともと城ケ谷近くにあったが、薩英戦争で焼け廃仏毀釈で一時廃院になるなどして、現在は鹿児島市易居町にある。五代家の墓は、その後不断光院より坂元墓地に改葬された。

<参考文献>
大阪朝日新聞『波佐見金山真相(上・中・下)』1913年7月18日〜21日
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
折田年秀『折田年秀日記 第三』2007年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 親兄弟(1)
Godai Tomoatsu, Parents and Siblings (1)

仙巌別館江南竹記
仙巌別館江南竹記 Monumental Inscription of Bamboo Forest, Senganen Garden

五代友厚の父、直左衛門秀堯(ひでたか)は薩摩藩の儒官で、漢学の造詣深く、特に仏書に通じていたという。御記録奉行として橋口兼柄らとともに三国名勝図会を編纂した。全60巻からなる三国名勝図会は、島津斉興の命により薩摩、大隅、日向領内の地誌や名所をまとめたもので、天保14年(1843年)に完成している。秀堯は、探勝園記や仙巌別舘江南竹記などの碑文も謹撰している。大久保利通は16歳から記録所書役助として出仕していたというから、大久保にとって秀堯は上司の一人であったかもしれない。

天保15年3月、フランス軍艦アルクメーヌ号(L’Alcmène)が貿易と布教を求めて琉球に来航する事件があった。仏艦の再来に備え警備に赴く友人のため、秀堯は琉球秘策という意見書を書いている。秀堯曰く、清国アヘン戦争の例をもってしても西洋諸国との交戦は避けるべきであり、そのため琉球においては通商を認めることもやむを得ない。ならば貿易を薩摩藩の利になるよう計策すればよい。この書は後に島津斉彬も閲読するところとなった。五代友厚の現実的な認識の上に立った開国論は、父秀堯譲りであったに違いない。

友厚の母やす子は、本田氏の出で、殿の乳母をもつとめ、女傑として知られていたという。天保10年(1839年)に秀堯が高橋景保作成の世界地図「新訂萬國全圖」を模写したが、秀堯の書き込みによれば、友厚の兄友健(徳夫)とやすもこれを手伝い、やすは四隅にある地図を模写したとのことである。

<参考文献>
鹿児島市『鹿児島市史第3巻』1971年
黒田安雄「『琉球秘策』について」『愛知学院大学文学部紀要 13号』1983年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
産経ニュース『歴史のささやき 五代家が模写した世界地図』2016年12月2日http://www.sankei.com/region/news/161202/rgn1612020034-n1.html

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