五代友厚 神子畑鉱山(足跡篇)

兵庫県朝来市にある神子畑選鉱場跡と明延鉱山を訪ねました。
今回は「周遊バスたじまわる 鉱石の道号」を利用しました。たった500円で生野銀山、神子畑選鉱場跡、明延鉱山をすべて回ってもらえる上、案内や配布されるパンフレット類もたいへん充実しています。大満足の一日となること間違いなしです。

神子畑選鉱場跡に向かう途中、神子畑鋳鉄橋を見学しました。
長さ約16メートルとそれほど大きくありませんが、しっかりした造りでとてもきれいな状態で保存されています。1980年代に一度解体し、保存のための大修理を行ったそうです。

神子畑鋳鉄橋
神子畑鋳鉄橋 Mikobata Cast Iron Bridge

神子畑鋳鉄橋は国の重要文化財に指定されています。日本に現存する全鋳鉄製の橋としては最も古く、鉄製の橋としても三番目に古いということです。ちなみに、一番目は大阪の心斎橋で錬鉄製(明治6年)、二番目は東京の弾正橋で錬鋳混用(明治11年)だそうです。

国指定重要文化財 神子畑鋳鉄橋
国指定重要文化財 神子畑鋳鉄橋 National Important Cultural Property Mikobata Cast Iron Bridge

神子畑川の鋳鉄橋の架橋は、御雇外国人の手を借りず、設計から施工まですべてを日本人が行った言われています。擬宝珠(ぎぼし)のかたちも和洋折衷のようです。

神子畑鋳鉄橋の擬宝珠
神子畑鋳鉄橋の擬宝珠 A Giboshi of Mikobata Cast Iron Bridge

「その銀鉱石を生野鉱山において精錬するための鉱石運搬道(四里四丁五四間 約16.3キロメートル)を明治十六年四月より同十八年三月にかけて建設した この運搬道の五個所にそれぞれ型式の違う鉄橋が架けられた」とあります。この石碑の設置者は三菱金属株式会社 明延鉱業所です。生野も神子畑も明延も、明治29年(1896年)に三菱へ払い下げられ、現在も三菱の所有となっています。

神子畑鋳鉄橋石碑 
神子畑鋳鉄橋石碑 Stone Monument of Mikobata Cast Iron Bridge

羽渕鋳鉄橋の説明もありました。日本に現存する鋳鉄橋は2つだけですが、そのひとつが神子畑鋳鉄橋、もうひとつが羽渕鋳鉄橋です。羽渕鋳鉄橋は明治22年に洪水で流されましたが修復され、現在は生野寄りの鉱山道路からそう遠くない場所に移築されています。神子畑鋳鉄橋は一連アーチですが、羽渕鋳鉄橋は二連アーチで長さが約18メートルあります。

神子畑鋳鉄橋説明板
神子畑鋳鉄橋 Mikobata Cast Iron Bridge

神子畑選鉱場跡です。建物は取り払われて、コンクリートの基礎が残るのみです。山の斜面を利用して機械を設置し、流れ作業によって鉱石を選んでいたということです。壮大な設備だったのでしょう、建物がない今でも十分威容を感じさせます。

神子畑選鉱場跡
神子畑選鉱場跡 Old Site of Mikobata Ore Processing

左手にインクラインの軌道が残っています。奥に見える白く小さな建物はインクラインの操作室だったそうです。

インクライン
インクライン Incline

選鉱場の建物は、平成16年(2004年)まで残されていました。東洋一と謳われた選鉱場は、24時間稼働の不夜城でした。

神子畑選鉱場夜景
神子畑選鉱場夜景 Mikobata Ore Processing Site at Night

神子畑選鉱場跡の見所は、インクライン(傾斜鉄道)、一円電車、ムーセ旧居(旧神子畑鉱山事務舎)、シックナー(選鉱後の泥水を分離する装置)などです。

神子畑選鉱場説明板
神子畑選鉱場説明板 Explanation Board of Mikobata Ore Processing Site

巨大な円形のシックナーです。

神子畑選鉱場跡
神子畑選鉱場跡 Old Site of Mikobata Ore Processing
神子畑選鉱場 シックナー
神子畑選鉱場 シックナー Mikobata Ore Processing Site Thickener

シックナーの中にたくさんの機械類が残されていました。三菱のマークにIKUNOの刻印があります。生野で使われていたものが、神子畑で再び使われていたのでしょうか。

神子畑選鉱場に残る機械類
神子畑選鉱場に残る機械類 Remaining Machinery at the Mikobata Ore Processing Site

旧神子畑鉱山事務舎です。生野銀山にあった異人館を神子畑に移築し、神子畑鉱山の事務所として利用していました。御雇外国人技師であるエミール・テオフィール・ムーシェ(Emile Theophile Mouchet)の居宅だったと言われており、ムーセ旧居とも呼ばれています。ムーシェは明治13年4月まで生野で働いていました。この建物が神子畑に移築されたのは明治21年(1888年)のことです。

旧神子畑鉱山事務舎
旧神子畑鉱山事務舎 Former Mikobata Mine Office Building

「この建物の建設には、フランス人のレスカス(Jules Lescasse 1841?-1901)と加藤正矩という日本人が関与したことが記録として残されている」とあります。加藤正矩は、五代友厚が命じて神子畑の探鉱をさせた人物と同じと思われます。

旧神子畑鉱山事務舎説明板
旧神子畑鉱山事務舎説明板 Explanation Board of Former Mikobata Mine Office Building

屋根瓦に菊の御紋が見えます。明治22年(1889年)から7年間、生野銀山とともに帝室財産となり、宮内庁御料局生野支庁が設置されていました。そのときの名残です。

菊の御紋(旧神子畑鉱山事務舎)
菊の御紋(旧神子畑鉱山事務舎) Chrysanthemum Emblem (Former Mikobata Mine Office Building)

明延と神子畑をつないだ一円電車が展示されています。
NHKアーカイブスの「明神電車」で、実際に一円電車が走っている姿を見ることができます。

神子畑選鉱場 一円電車
神子畑選鉱場 一円電車 Mikobata Ore Processing Site One-yen Train

神子畑選鉱場跡を出発し、明延鉱山へ向かいます。一円電車はもう走っていませんので、道をぐるりと大回りして移動します。

明延鉱山にも一円電車がありました。
明延と神子畑は、明神隧道というトンネルが完成したことにより、昭和4年(1929年)につながりました。電車による鉱石の運搬が始まり、昭和20年になると鉱石だけでなく人を運ぶ客車も運行されるようになります。昭和27年に一円電車切符の発行が始まり、昭和60年までの33年間、料金1円で人々を運んだということです。片道30分、客車2両で定員は約40人でした。

明延鉱山 一円電車
明延鉱山 一円電車 Akenobe Mine One-yen Train

明延鉱山の広場にはO型の軌道が敷設され、実際に一円電車を走らせることができるようになっています。定期的に一円電車「くろがね号」の体験乗車会が開かれているそうです。

明延鉱山駅名標
明延鉱山駅名標 Akenobe Station Name Plate

明延鉱山の見所は、一円電車の体験乗車、坑道見学、明延ミュージアム「第一浴場」、大仙粗砕場跡、北星社宅などです。

明延まるごと博物館マップ
明延まるごと博物館マップ Map of Akenobe Mine City

探検坑道を見学します。ガイドさんと一緒でなければ中に入れません。通常は事前に予約が必要ですが、今回は周遊バス たじまわるのツアーの一環として見学させてもらえました(入坑料別)。日曜日坑道見学会であれば、予約不要とのことです。

明延鉱山探検坑道入口
明延鉱山探検坑道入口 Entrance of Akenobe Mine Exploration Trail

生野銀山ほど観光用にきれいに整備されているわけではなく、稼働していた頃の設備がほとんどそのままです。当時の息吹が感じられるようです。

明延鉱山
明延鉱山 Akenobe Mine

明延は錫鉱山として名を馳せ、錫の産出量は全国の90%を誇っていたといいます。錫の他にも銅・鉛・亜鉛などを産出していました。

明延鉱山
明延鉱山 Akenobe Mine

坑道の出口に近いところには、掘削、運搬用など様々な種類の機械が残されたままになっています。購入したばかりでほとんど使われずに閉山を迎えてしまった高価な機械もあるそうです。

明延鉱山探検坑道案内
明延鉱山探検坑道案内 Akenobe Mine Exploration Trail Map

出口は入口とは別の場所にあります。冬の間は出口が大雪で埋まってしまうこともあるそうです。

明延鉱山探検坑道出口
明延鉱山探検坑道出口 Exit of Akenobe Mine Exploration Trail

<住所>
神子畑鋳鉄橋:朝来市佐嚢字水田
神子畑選鉱場跡: 朝来市佐嚢1842番地1
明延鉱山:養父市大屋町明延

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五代友厚 神子畑鉱山(2)

神子畑選鉱所
神子畑選鉱所 Mikobata Beneficiation Plant

五代友厚が探鉱を命じ採鉱が始まった神子畑の銀は、生野の精錬所にその鉱石が運ばれ、選鉱・製錬が行われていた。当初、運搬には牛車と手引車を使ったが、明治16年(1883年)4月から2年に渡る大工事の末、神子畑から羽渕を経て生野まで16.2キロ、幅員3.6メートルの馬車道(鉱山軌道)が整備された。この馬車道は生野と姫路の飾磨津港を結ぶ生野鉱山寮馬車道とつながっており、産業輸送道路として重要な役割を担った。

馬車道のため神子畑川には5つもの鋳鉄橋が架けられた。橋梁の材料は、木、石、鋳鉄、錬鉄、鋼鉄と変遷するが、過渡期につくられた全鋳鉄の橋は日本においては稀で、現存するのは神子畑と羽渕の二橋のみである。産業革命の象徴として知られるイギリスのアイアンブリッジ(The Iron Bridge)も鋳鉄製だが、アイアンブリッジは1779年の完成だから、日本より100年以上も先行していたことになる。神子畑の鋳鉄橋は、御雇外国人の力を借りず、設計から施工まですべてを日本人が行ったとされ、美しい欄干や格子には日本的な特徴が見られる。

五代が神子畑に旧坑があることを知ったのは、宍粟郡冨土野赤銅山へ向かう途中であったという。赤銅山は、神子畑の北西約8キロ、明延と連なる宍粟市一宮町倉床の銅山であろう。同じく倉床にある大立鉱山は、明治7〜8年頃に生野の山原某という人が探鉱に着手し、明治13年に五代が開坑したとされる。同じく倉床の大身谷鉱山も五代が所有していた。官営の生野鉱山は別として、生野の支山の多くを五代が経営していた。

倉床の赤金銅山は後に赤松力松の所有となっている。赤松力松はおそらく播州の人であったと思われるが、五代の鉱山関係の書類にときどき名前が出てくる。赤松力松は、自分の住所として五代が大阪で住んでいた靭北通一丁目と同じ住所を書いており、五代はこの住所の後にたいてい「寄留」と書いているから、五代が住んでいた家は、もともとは赤松力松の所有地だったのかもしれない。五代友厚関係文書の中に「地券写 赤松力松所有地」といった書類も見られる。

<参考資料>
鉱石の道推進協議会『鉱石の道 近代化産業遺産エリア』2014年
「“五代様”政府に先立ち朝来で探鉱 資料見つかる」『神戸新聞』2016年1月30日
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 神子畑鉱山(1)

神子畑村と明延銀山地図
神子畑村と明延銀山(天保国絵図 但馬国) Mikobata Village and Akenobe Silver Map (Tenpou Kuniezu Tajima)

神子畑(みこばた)の開山は平安時代に遡り、戦国時代盛んに採鉱されたが、生野の繁栄に伴い休山した。神子畑は、生野銀山の北西16〜17kmの場所にある。神子畑鉱山は明治11年(1878年)に良好な銀鉱脈が発見され、明治10年代から30年にかけて最も繁栄した。明治40年以降は鉱脈が減少し、明治42年に神子畑のすぐ北の明延鉱山で錫鉱脈が発見されたことから、神子畑は明延の鉱石の選鉱場として生まれ変わる。錫に加え、銅と亜鉛の選鉱も行うようになり、昭和の初めには東洋一といわれる施設を誇っていた。

明治初年に神子畑の鉱脈探しを指示したのは五代友厚であるという。2016年1月30日付神戸新聞の記事によれば、五代は、宍粟郡冨土野赤銅山経営の途、神子畑に旧坑あるを探知し、部下の加藤正矩に命じて探鉱を始めた。加藤は明治6年より探鉱に着手、山案内は山内与三右衛門といった。これらの記録は、地元の郷土史家、故山内順治さん(1881~1969年)の手記に残されていたもので、朝来市の郷土史料館「生野書院」の小椋俊司館長が、山内順治さんの孫である山内隆治郎さんからから借りた文書の中から発見したという。手記を記した山内順治さんは、加藤に山案内をした山内与三右衛門さんのご親族であろうか。

明治10年頃、少量の鉱石を牛にて背積けて生野鉱山へ納入せりとあるから、選鉱は生野鉱山で行っていたらしい。明治15年には坑夫100人以上が入山したとあり、採鉱が盛んになった様子が伺える。神子畑の主要鉱脈を擁する「加盛山」の命名は、加藤正矩の加を用いたものという。山内隆治郎さんが保管する別の手記には「神子畑を通る際、間歩谷に着眼した」「加盛山の坑口は案内人が休みの日に見つかった」などの記載もあるという。山内さんは関係者への聞き取りなどから独自に調べたとみられ、加藤を案内した人物や作業員の宿までかなり具体的な記録が残されている。

<参考資料>
鉱石の道推進協議会『鉱石の道 近代化産業遺産エリア』2014年
「“五代様”政府に先立ち朝来で探鉱 資料見つかる」『神戸新聞』2016年1月30日

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