五代友厚 上海到着(足跡篇)
Godai Tomoatsu, In Shanghai (Footprints)

五代友厚らが乗った千歳丸は、1862年初夏に上海のフランス租界に到着しました。黄浦江沿いの旧フランス租界付近を歩きました。

Godai Tomoatsu and the other members of Senzai-maru arrived at the French Concession, Shanghai in the early summer of 1862.  I walked around the Old French Concession along the Huangpu River.

租界時代のフランス領事館前にあった波止場付近です。今も浦東との間を渡船が行き来しています。川向こうに見えるタワーは浦東の東方明珠電視塔です。千歳丸が訪れた当時のフランス租界は、洋涇浜から上海県城までのわずかな地域でした。その後、どんどん西へ拡大していくことになります。

黄浦江の波止場付近
黄浦江の波止場付近 Near the Wharf of Huangpu River

黄浦江沿いは遊歩道になっています。人でいっぱいですが、景色もよくて天気のよい日は本当に気持ちがいいです。川にはたくさんの船が停泊しています。これらは水上公安であったり中国税関であったり中国辺検(出入国管理)であったりします。

黄浦江遊歩道
黄浦江遊歩道 Huangpu River Promenade

波止場から北の方に向くと租界時代の古い建物とともに気象信号塔(Gutzlaff Signal Tower)が見えます。千歳丸が来たときにはまだなかったものです。

気象信号塔
気象信号塔 Gutzlaff Signal Tower

気象信号塔から西へ延びる道を延安東路と言います。五代友厚らが上海に来たときは洋涇浜という水路でした。イギリス租界とフランス租界の境界で、ここから北がイギリス租界でした。

中山東路と延安東路の交差点付近
中山東路と延安東路の交差点付近 Near Zhongshan East Road and Yan’an East Road

東西に走る延安東路と南北に延びる中山東路の交差点です。北に向かって見ています。延安東路の右(東)から2番目の建物は、1922年に大北電報公司(Great Northern Telegraph Company)が建てた自社ビルで、現在は上海電信博物館になっています。

中山東二路と延安東路の交差点
中山東二路と延安東路の交差点 Near Zhongshan East Road and Yan’an East Road

延安東路はもともと水路でしたので非常に幅の広い道路です。1915年に埋め立てられたときは、愛多亜路(Avenue Edward VII)と呼ばれていました。延安東路の地下は隧道が通っていて浦東につながっています。

延安東路
延安東路 Yan’an East Road
延安東路
延安東路 Yan’an East Road

黄浦江沿いに中山東路を北へ少し歩くとバンコク銀行があります。大北電報公司(Great Northern Telegraph Company)はもともとこの場所にありました。大北電報公司は日本では大北電信会社といい、1871年に日本で初めての国際電信を長崎と上海の間でつなげました。長崎居留地には「国際電話発祥の地」碑があります。現存の建物は1907年の建造です。

大北電報公司(バンコク銀行)
大北電報公司(バンコク銀行) Great Northern Telegraph Co. (Bangkok Bank)

中山東一路7号

ここから中山東路を南下します。再び気象信号塔の前を通りました。最初に設置されたのは1883年で、現存の塔は1907年に建てられたものです。赤と白の組み合わせがしゃれています。1990年代に改修した際、場所も若干移動したようです。

気象信号塔
気象信号塔 Gutzlaff Signalling Tower Gutzlaff Signalling Tower

気象信号塔説明板

近くに港町らしいモニュメントがありました。

波止場近くのモニュメント
波止場近くのモニュメント The Monument near the Wharf, Shanghai

延安東路から一本南が金陵東路です。租界時代は金陵東路の北側にフランス領事館がありました。現在は光明金融大厦という近代的なビルが建ち、中国工商銀行が入っています。

光明金融大厦
光明金融大厦(中国工商銀行) Guangming Finance Tower (Industrial and Commercial Bank of China)
光明金融大厦(中国工商銀行)
光明金融大厦(中国工商銀行) Guangming Finance Tower (Industrial and Commercial Bank of China)

金陵東路2号

光明金融大厦の金陵東路側入口です。

光明金融大厦入口
光明金融大厦入口(中国工商銀行) Entrance the Guangming Finance Tower (Industrial and Commercial Bank of China)

光明金融大厦プレート

さらに一本南の道が新永安路です。千歳丸が訪れた当時は永安街と呼ばれていました。ちなみに、「新」のつかない永安路はここから一本西へ入った南北の道をいいます。千歳丸が到着してまず訪れたのは「蘭館」でしたが、そのオランダ領事館は永安街の北側にありました。また、宿泊先としていた宏記館はオランダ領事館の隣りだったようです。残念ながら当時の建物はなにも残っていません。

新永安路
新永安路 New Yong’an Road

新永安路の南側にある赤レンガの建物は、太古洋行(Butterfield & Swire Co.)が建てたものです。太古洋行は海運業で財を成し、植民地時代の香港で発展しました。上海には1886年に進出していますが、この建物は1906年の竣工です。横浜にある旧イギリス七番館は、このバターフィールド&スワイヤー社の横浜支店だったそうです。

太古洋行
太古洋行 Butterfield & Swire Co.

中山東二路22号

外灘の夜景です。
上海に最初のガス燈が灯ったのは1865年だそうですから、千歳丸が訪れたときの上海の夜はまだ暗かったのでしょう。

上海外灘夜景
上海外灘夜景 The Bund at Night
上海浦東夜景
上海浦東夜景 Pudong at Night
気象信号塔
ライトアップされた気象信号塔 Gutzlaff Signal Tower at Night

<住所>
金陵東路渡口:上海市黄浦区中山東二路141号
大北電報公司(バンコク銀行) :上海市黄浦区中山東一路7号
大北電報公司(上海電信博物館):上海市黄浦区延安東路34号
気象信号塔(外灘天文台):上海市黄浦区中山東二路1号甲
フランス領事館(光明金融大厦、中国工商銀行):上海市黄浦区金陵東路2号
オランダ領事館付近:上海市黄浦区新永安路
太古洋行(外灘二十二号):上海市黄浦区中山東二路22号

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五代友厚 上海到着(2)
Godai Tomoatsu, In Shanghai (2)

上海フランス租界
上海フランス租界 Plan de la Concession française à Shanghai [levé en 1865, rectifié en 1870] (British Library)
高須藩の日比野輝寛は、その『贅肬録』に、文久2年5月6日(1862年6月3日)に千歳丸が上海の港に下錨したときの光景を「江ハ満抹皆船ナリ 陸ハ家屋比麟 何ゾ盛ナルヤ」と記している。船や家屋がひしめきあう様子に驚き、次に「公役三人訳者一人上陸シ蘭館に到リ 新関ノ官吏ヘ着岸ヲ告ゲシメ且旅館ヲ約ス」とある。

蘭館とは、オランダ領事館(Dutch Consulate)と點耶洋行(Kroes & Co.)が入った建物のことで、このときのオランダ領事はボルス(Bols)、副領事はテテオドール・クルース(Theodorus Kroes)であった。クルースは點耶洋行を営む貿易商でもあり、長崎のオランダ領事兼オランダ貿易会社代理人のアルベルト・ボードワァン(Albertus Bauduin)とは頻繁にやり取りをしていたようだ。新関とは江海関、つまり税関のことである。宿泊は宏記館と決まった。

医師尾本公同の従者で大村藩の天文方だった峰源蔵は、その『船中日録』及び『清国上海見聞録』に、オランダ商館はフランス租界の中にあって、老北門から東の永安街にあり、宏記館はオランダ商館隣りの洋館で川端にあったと書いている。また、この辺りは縦横に街路を割り、道幅が広く、比較的清潔で、在留外国人は1万5千人余りらしいとも言っている。

水夫として乗り込んだ五代は、宏記館ではなく千歳丸で寝起きしていたようだ。しかし、宏記館も決して居心地がよかったわけではないようで「部屋狭ク居所無キ故」、峰はしばしば千歳丸の五代を訪ね、そのまま千歳丸に泊まったりしている。また、五代と話し込む中で、五代が中国に来た目的は、君命により航路を探り、後日薩摩の産物を売って利潤を得ることで、2〜3年は損失が出ようとも「国家ノ事ヲ計ル両三年ノ損失ハ少シモ厭」と語っていたという。

Senzai-maru arrived at the port of Shanghai on 3rd June 1862.  The Japanese officials stayed at a hotel near the Dutch Consulate located in the French Concession.  Godai Tomoatsu, however, remained on the Senzai-maru.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
Joshua A. Fogel, “Maiden Voyage: The Senzaimaru and the Creation of Modern Sino-Japanese Relations” 2014
A. ボードウァン著 フォス美弥子訳『オランダ領事の幕末維新』1987年

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五代友厚 上海到着(1)
Godai Tomoatsu, In Shanghai (1)

千歳丸航路
千歳丸航路(『”千歳丸”上海行』より) Senzai-maru Route

五代友厚と同じ千歳丸(Senzai-maru)で上海(Shanghai)に渡った長崎商人松田屋判吉の『唐国渡海日記』によれば、船は「最早助る心地は無之皆々覚悟いたし・・・」ほどの暴風雨にあったが、文久2年5月5日(1862年6月2日)朝、ようやく揚子江口に到り、昼頃呉淞江(Wusong River)に碇泊した。そして「今晩より舟つなぎに付水夫四人商人小者三人〆七人之内二人宛不寝番相始まる」とある。水夫は五代を含めて4人であったから、士分の五代も仕事を免除されていたわけではなさそうだ。ちなみに松田屋の乗船者一覧では、水夫のみ名前が省略されている。

千歳丸の日本人乗船者は、幕臣とその従者として各藩から推挙された21名、長崎の通詞、商人らとその従僕20名、炊夫6名と水夫4名であった。従者は中牟田倉之助や納富介次郎など佐賀藩士が最も多く、長州藩の高杉晋作などもいた。薩摩藩からは五代友厚とともに忠次郎という男が水夫として乗り込んでいるだけであった。また、松田屋は蘭商としてボーテエン(Albertus Johannes Bauduin)とドンブレンキ(Franciscus Petrus Tombrink)の名を書き留めているが、他の者の記録を見ると蘭商は1人とあり、また上海到着後に名前が上がるのはドンブレンキのみなので、実際に同行したのはドンブレンキだけだろう。

呉淞到着日は端午の節句ということで、松田屋は「今日日本節句に付昼飯は鱠取魚干魚煎〆に而祝致す」と記し、祝膳を囲んだことがわかる。厳しい船旅の後陸に着いた安堵感と初めての外国での取引きを前にした緊張感が入り混じる日だったのだろうか。翌日6日、千歳丸は英船に曳かれて黄浦江を溯上し上海の港に到着した。

Godai Tomoatsu arrived at Wusong, China by Senzai-maru on 2nd June 1862.  As there was no official diplomatic relations between Japan and China, Holland acted as a mediator between them.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
馮天瑜『”千歳丸”上海行』2006年

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