五代友厚 上海南市(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Shanghai Nanshi (Footprints)

旧上海県城の南側を歩きました。1862年に上海へ派遣された千歳丸のメンバーも、度々城内を訪れました。

I  walked around the southern part of Old City of Shanghai.  Senzai-maru members who were dispached to Shanghai from Japan in 1862 were also visiting there again and again during their stay in Shanghai.

地下鉄の老西門駅で降ります。駅名も漢字も貫禄があります。

上海地下鉄の老西門駅
上海地下鉄の老西門駅 Laoximen Station, Shanghai Metro

旧上海県城内にある文廟を目指します。文廟は老西門の南にあります。

老西門駅
老西門駅 Laoximen Station

しばらく歩くと小さな店がひしめきあう賑やかな場所に出ました。竹が積んであるのは足場を組むためでしょうか。

人民路の中古市場
人民路の中古市場 Second-hand Market along Renmin Road, Shanghai

屋内に生鮮食品の市場もありました。肉、魚なんでも売っています。

人民路の食品市場
人民路の食品市場 Food Market along Renmin Road, Shanghai

中華路を過ぎて人民路まで来てしまっていました。老西門の南へ行くつもりが北向きに歩いていたのです。人民路、方浜西路、西蔵南路に囲まれた一帯が市場になっていて、衣料、中古電化製品、その他あらゆる種類のものが売られています。

人民路 方浜路付近
人民路 方浜路付近 Renmin Road near Fangbang Road, Shanghai

西蔵南路側には、万商花鳥市場という動植物を扱う市場がありました。これはこおろぎを売る店です。中国ではこおろぎをカゴや筒に入れて鳴き声を愛でる文化があるそうです。

こおろぎ屋
こおろぎ屋 Cricket Shop along Xizang South Road

また、闘蟋(とうしつ)といって、こおろぎ同士を闘わせる遊びもあるそうです。日本では見たこともないような大きなこおろぎがケースに一匹ずつ収められています。トーナメントに勝ち残ったこおろぎを「虫王」と呼ぶそうです。千年以上続くこの遊びは、賭博の一種でもありました。しかし、今はお金を賭けることは禁止されているとのこと。こおろぎを選ぶおじさんの目も真剣です。

販売用こおろぎ
販売用こおろぎ Crickets for Sale

こおろぎ用の住まい、陶器の餌入れ、その他用途のわからないものもたくさんあります。用具を選び出したら楽しくて止まらなくなりそうです。

こおろぎの飼育用品
こおろぎの飼育用品 Supplies for Crickets

核武器・・・こおろぎに与える餌の名前のようです。

こおろぎ屋
こおろぎ屋 Cricket Shop

市場見学を終え、再び老西門に戻ってきました。中華路と復興東路の交差するあたりです。

中華路 老西門付近
中華路 老西門付近 Zhonghua Road near Laoximen, Shanghai
復興東路
復興東路 老西門付近 Fuxing East Road near Laoximen, Shanghai

復興東路です。昔は水路でした。老西門はこの水路の少し北にあったようです。

復興東路
復興東路 老西門付近 Fuxing East Road near Old West Gate, Shanghai

復興東路の一本南を東西に走る道が夢花街です。他ではちょっと見ないあでやかな名前がついています。この道を東に入ると文廟の北側に出ます。

夢花街
夢花街 Menghua Street

文廟の入口に到着しました。チケットを購入して中に入ります。

上海文廟
上海文廟 Confucian Temple, Shanghai
上海文廟一覧図
上海文廟一覧図 Map of Shanghai Confucian Temple

上海文廟説明板

文廟チケット
文廟チケット Shanghai Confucian Temple Ticket

まず櫺星門をくぐります。

上海文廟櫺星門
上海文廟櫺星門 Lingxing Gate, Shanghai Confucian Temple

次に大成門です。文廟は1855年にこの地に移されました。それより前は上海県署と大東門に間にありましたが、小刀会の蜂起で荒廃し、移転を余儀なくされました。建物は文化大革命の際にも破壊され、1990年代になって新しく建て直されたそうです。

上海文廟大成門
上海文廟大成門 Dacheng Gate, Shanghai Confucian Temple

この日、大成門の向こうは古本市で盛り上がっておりました。毎週日曜日に古本市が開かれているそうです。ミニサイズの歴史の漫画本があちこちで売られていました。中国五千年の歴史をたどれば本の種類も多くなろうというものです。

文廟古本市
文廟古本市 Book Market at the Shanghai Confucian Temple

孔子が祭ってある大成殿に入ります。

上海文廟大成殿
上海文廟大成殿 Dacheng Hall, Shanghai Confucian Temple

文廟大成殿説明板

大成殿の内部です。

上海文廟大成殿
上海文廟大成殿 Dacheng Hall, Shanghai Confucian Temple
上海文廟大成殿内部
上海文廟大成殿内部 Inside of the Dacheng Hall, Shanghai Confucian Temple

壁一面に並んでいるのは、論語の全文を彫った碑刻だそうです。圧巻です。

論語碑刻
論語碑刻 Analects of Confucius
論語碑刻説明板
論語碑刻 Analects of Confucius

大成殿から見た古本市と孔子様の後ろ姿。実は、この東側の敷地に明倫堂などたくさんの建物があったようですが、古本市に夢中でそれらの建物に気づかず出てしまいました。残念です。文廟は県の最高教育機関でもあり、多くの科挙合格者を輩出したそうです。

孔子像
孔子像 Statue of Confucius

文廟の南側の道、文廟路です。文廟路をはさんで正面にある学校は敬業中学という上海市の重点中学で、前身の敬業書院はその歴史を1748年まで遡るそうです。この地に移ったのは1862年ということですから、五代友厚ら千歳丸のメンバーが上海に来たときには、文廟も敬業書院ここにあったということになります。

文廟路
文廟路 Wenmiao Road

文廟路には、アニメやフィギュア、プラモデルといった店がたくさん並んでいました。上海の秋葉原といったところでしょうか。文廟路を西に歩き、再び中華路に出ます。昔は城壁であった中華路沿いを南に歩いて、小南門を目指そうと思います。

文廟路 中華路付近
文廟路 中華路付近 Wenmiao Road near Zhonghua Road

文廟路の一本南の蓬莱路です。
中国ではバイクの前面に必ずといってよいほど風除けがついています。専用のものがかけられている場合もあれば、ジャケットをそのまま引っ掛けている場合もあります。バイクは電動が多くとても静かに走ります。電動バイクはほぼ自転車感覚で、運転免許も必要ないそうです。

蓬莱路 中華路付近
蓬莱路 中華路付近 Penglai Road near Zhonghua Road, Shanghai

尚文路を過ぎます。

尚文路 中華路付近
尚文路 中華路付近 Shangwen Road near Zhonghua Road

洗濯物もひらひら。

中華路の洗濯物
中華路 Zhonghua Road

河南南路まで来ました。河南南路は城内を南北に貫く大きな道路で、ここは城壁の真南にあたります。大南門はこの辺りにあったようです。

河南南路 中華路付近
河南南路 中華路付近 Henan Road near Zhonghua Road, Shanghai

次に光啓南路を過ぎます。

光啓南路 中華路付近
光啓南路 中華路付近 Guangqi South Road near Zhonghua Road

途中、どっしりとした白いビルがありました。現在は郵便局として使用されていますが、もとは1920年に上海電話局南市総局として建てられた建物です。

中華路沿いの中国郵政
中華路沿いの中国郵政 China Post along Zhonghua Road

中華路沿いの中国郵政

中華路をはさんで西が黄家路、東が董家渡路という地点です。このまま中華路沿いをしばらく進むと

黄家路 中華路付近
黄家路 中華路付近 Huangjia Road near Zhonghua Road

地下鉄小南門駅に到着です。

小南門駅

小南門駅周辺には赤レンガの長屋のような建物も残っています。

中華路
中華路 小南門付近 Zhonghua Road near Xiaonnanmen, Shanghai

小南門駅の目の前が王家碼頭路です。小南門駅から東に延びる道で、黄浦江にあった王家の埠頭へつながる道ということでしょう。名倉予何人が王亘甫と知り合った場所です。名倉は王家の邸宅にも招かれています。

王家碼頭路
王家碼頭路 中華路付近 Wangjiamatou Road near Zhonghua Road
王家碼頭路
王家碼頭路 Wang Jia Ma Tou Road, Shanghai

小南門から城内、つまり中華路より西側へ入ると、今も昔の小さな住宅が残っています。

上海県城内の住宅
上海県城内の住宅 Houses in the Old City of Shanghai

竹の足場を組んで改修中の住宅もありました。超高層ビルのすぐそばにも、まだこのような長屋が残り、日々の暮らしが営まれています。

上海城内の住宅改修
上海城内の住宅改修 Housing Renovation

<住所>
万有全大境菜市場など:上海市黄浦区人民路
上海文廟:上海市黄浦区文庙路215号
中国郵政 大南門郵政所(旧上海電話局南市総局):上海市黄浦区中華路734号

五代友厚 上海南市(2)
Godai Tomoatsu, Shanghai Nanshi (2)

上海県城図
上海県城図 19世紀初 Map of Shanghai Walled City, Early 19th Century (Virtual Shanghai)

太平天国軍の乱による影響もさることながら、上海滞在中の千歳丸一行を最も苦しめたのは濁水問題だったようだ。到着後まもなく2名がコレラにより死没し、半数以上が下痢や嘔吐など体調不良に悩まされた。上海には城中に3つか4つの井戸があるのみで、常は黄浦江の水を明礬や石灰で汚れを沈殿させて漉して飲むという具合であった。黄浦江には糞尿が流され人や動物の死体が浮いていたというから、この程度の処理で飲み水とするには抵抗があったろう。さらに1ヶ月ほどして岩瀬公圃の従者、碩太郎も病没した。上海は、収容能力をこえる難民の流入で衛生状況が極限まで悪化していた。

日本人の遺体は浦東の爛泥渡に埋葬されたという。ようやくたどり着いた外国の地で命を落とすのは無念であったに違いない。文久2年(1862年)のこの年は、上海のみならず日本でも麻疹とコレラが大流行していた。上海渡航前から体調が万全でない者がいたし、高杉晋作も出発前に麻疹にかかっていたという。

到着して1ヶ月が経った頃、高杉晋作は千歳丸に五代友厚を訪ねた。五代は水夫の身であったから千歳丸に起居していた。五代曰く、郷里から届いた手紙によれば、京摂のあいだで事変があり、我が藩も関係しているらしいとのこと。文久2年4月23日(1862年5月21日)に起こった寺田屋事件のことだろう。高杉は慨然とし、直後に蘭館で地図と短銃を求めたという。

この頃、浜松藩の名倉予何人は、上海県城内の文廟に駐留するイギリス軍を目撃する。兵学に関心のある名倉はその後も城内外を積極的に歩きまわり、ある日小南門近くで王亘甫(Wang Xuanfu)と知り合った。王家は富裕な商人の一族で、王亘甫のおじは地方行政にも関与する上海の有力者だったという。名倉は小南門外にあった王家の邸宅を訪ねるようになり、王亘甫の世話で李鴻章の淮軍の軍事調練を見学する機会も得た。

For the Senzai-maru party who arrived in Shanghai in 1862, the chief problem was water pollution.  Three Japanese died of Cholera and a half of the members were in sick due to  polluted water.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
宮田道昭『上海歴史探訪』2012年

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五代友厚 上海南市(1)
Godai Tomoatsu, Shanghai Nanshi (1)

上海城壁と堀
上海城壁と堀 Shanghai Wall and Moat (Virtual Shanghai)

文久2年(1862年)、千歳丸で上海に来た大村藩の峯源蔵は、当時の上海についてこう書いている。

清国十八省のうち、落ち着いているのはわずか五省で、残り十三省はほどんと清国の所領にあらず。上海は四方から難民が集まるため、米価が日々沸騰し、その他の品も高値のため、下賤の者は米あるいは牛豚等の肉を食べることができない。この形勢では近日餓死する者も多いだろう。

この頃の中国は、小刀会や太平天国(長毛賊)、清国、それに英仏軍が入り乱れての戦火が絶えず、上海には多くの難民が流れ込んでいた。峯が中国人に難民の数を尋ねたところ、10万人余りとの答えが返ってきている。黄浦江には隙間なく小舟が浮かび住居となっていたという。滞在中、千歳丸のメンバーは間近で砲声を聞いたり、多くの英仏軍人を見ている。また、戦況を新聞で確かめ、調練を見学した者もいた。

峯はこのような状況に接し、それぞれの国家の立場を冷静に分析する。英仏等が清国を助けるのは、利を計較しているのであって真の仁心ではないと嘆息し、米穀は人命に関することなので、日本のような山間の国で海路もなく陸運も不便なところもある国は、必然非常時の蓄えを持たねばならぬと説く。また、清国の人は、仮に難事があっても往々にして天命に付し問うことをせぬ故、禍が止まらないと考える。さらに、争乱で古器宝物が散逸することも惜しんでいる。

上海到着後10日ほど経った5月17日、名倉予何人は上海城内の文廟を訪れ参拝を試みた。しかし、そこは英軍の駐屯地となり、聖像は南門近くの也是園に移されていた。名倉はその経緯を中国人との筆談で聞き出している。文廟は孔子を祭るだけでなく、県の最高学府でもあったから、その場所を外国軍が占有しているのは異常事態であった。帰路、名倉はイギリス人に酒を誘われたりもしている。

この日、五代友厚は中牟田倉之助、高杉晋作とともにイギリス人所有の蒸気船を見に行った。

When the Senzai-maru arrived in Shanghai in 1862, a vast region in the southern part of China was involved in the Taiping Rebellion.  A lot of refugees poured in Shanghai and the western troops was staying in both the foreign settlement and the walled city of Shanghai.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年

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