五代友厚 千歳丸の帰国(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Senzai-maru Returns to Japan (Footprints)

上海の虹口から浦東へ渡り、さらに浦東から外灘へ渡りました。虹口は日本と関係の深い場所です。虹口や浦東の黄浦江沿いには、1850年代より多数の造船所や埠頭が造られました。

I crossed the Huangpu River from Hongkou to Pudong, then from Pudong to the Bund.  There used to be a lot of shipyards in this area.

上海地下鉄12号線の国際客運中心駅で降ります。国際フェリーターミナルの最寄り駅です。駅の内装がなぜかプラネタリウム風。

上海地下鉄国際客運中心駅
上海地下鉄の国際客運中心駅 International Cruise Terminal Station of Shanghai Metro

黄浦江に向かって5分ほど歩くと上海港国際客運中心、国際フェリーターミナルの入口に到着します。

上海港国際客運中心入口
上海港国際客運中心 Shanghai Port International Cruise Terminal

大きなターミナルビルがあり、乗船客以外でも楽しめます。輸入食品を扱ったスーパーが入っていて、寿司コーナーも充実していました。

国際客運中心内のショッピングモール
国際客運中心内のショッピングモール Shopping Mall at the International Cruise Terminal

ターミナルビルを通り抜けて黄浦江に出ます。このあたりは星外灘と名付けられ、再開発が進められているようです。

星外灘
星外灘 Xingwaitan

黄浦江沿いに遊歩道が設けられているので、ここを東に向かって歩きます。観光客よりローカルの人が多いスポットです。

国際客運中心近くの遊歩道
国際客運中心近くの遊歩道 Promenade near the International Cruise Terminal

遊歩道沿いの透明なフェンスのところどころに、この地の歴史的経緯が説明されています。写真は老船澳(オールド・ドック、Old Dock)の説明です。オールド・ドックは、1852年にアメリカ人杜那普(デューズナップ、J. Dewsnap)により建てられました。つくられた当初は当然ながらニュー・ドックだったわけですが、すぐそばに新しい別の埠頭ができたため、オールド・ドックと改められたそうです。日本から千歳丸が派遣された1862年にはすでにオールド・ドックとなっていました。

老船澳の説明板
老船澳の説明板 Explanation Board of the Old Dock, Shanghai

黄浦江北側は虹口というエリアです。もとはアメリカ租界でしたが、千歳丸が派遣された頃には、アメリカ租界とイギリス租界をまとめた共同租界となっていました。その後、日本も虹口を中心に進出するようになり、多くの日本人がここを訪れたり住んだりするようになります。内山完造が虹口に開いた書店には、谷崎潤一郎や佐藤春夫も訪れたそうです。

虹口黄浦江濱江公共空間
遊歩道の案内表示 Sign Board at the Promenade

国際フェリーターミナルには、新鑑真号が碇泊していました。上海と神戸・大阪を往復する定期船です。前身ともいえる日華連絡船が、大正12年(1923年)から20年のあいだ上海と神戸の間を航行していました。日華連絡船は長崎経由でした。千歳丸と同じ航路を通っていたのでしょう。

新鑑真号
新鑑真号 Xinjianzhen Ferry
新鑑真号
新鑑真号 Xinjianzhen Ferry

透明フェンスに日本郵船碼頭の説明がありました。透明フェンスは読みにく過ぎて、誰も足を止めません。五代友厚は日本郵船の創設にも関わったとされています。日本郵船の埠頭は、現在の国際フェリーターミナルより少し西の蘇州江に近いところにありました。写真は1926年のものだそうです。当時、埠頭のすぐ西側に日本総領事館がありました。

日本郵船碼頭の説明板
日本郵船碼頭の説明板 Explanation Board of the Japan Mail Steamship Co. Wharf

新鑑真号に次々と運び込まれるコンテナ。人だけでなく貨物もかなり積むようです。

中日輸送コンテナ
中日輸送コンテナ Chinjif Containers

さらに北上します。緑地の中なのでのんびり気持ちよく歩けます。向こう岸に外灘も見えます。

旧租界の眺め
旧租界の眺め View of the Bund

緑地の終りに公平路輪渡站という渡船乗り場があります。ここから浦東に渡ることにします。外灘から出る渡船と違い、観光客はあまりいません。この渡船にはバイクごと乗り込む人多数。

公平路輪渡站
公平路輪渡站 Gongping Road Ferry Station

渡船から見る黄浦江。空は青いですが、川は茶色いです。

渡船から眺める黄浦江
渡船から眺めるView of the Huangpu River from Ferry Boat

新鑑真号が煙を吐いていました。日本に向けて出航間近の様子。

新鑑真号出航
新鑑真号出航 Departure of the Xinjianzhen Ferry

浦東の泰東路輪渡站に到着です。

泰東路輪渡站
泰東路輪渡站 Taidong Road Ferry Station

渡船乗り場から東に歩きます。ここは上海船廠濱江緑地といって、もともと上海船廠という造船所があった場所です。上海船廠は1858年の設立ですから、五代友厚や千歳丸が上海に来たときにはすでに操業していました。

上海船廠濱江緑地
上海船廠濱江緑地 Shanghai Shipyard Binjian Park

のどかに釣りをする人々。何が釣れるのでしょうか。中国にしては人がまばらなエリアです。川崎船渠、三井洋行碼頭などがこの辺りに置かれていた時代もありました。

上海船廠濱江緑地で魚釣り
上海船廠濱江緑地 Shanghai Shipyard Binjian Park

再び黄浦江を渡ります。陸家嘴駅から南京東路駅まで地下鉄に乗りました。
南京路の入口にある和平飯店です。もとは沙遜大廈(サッスーンハウス、Sassoon House)という1929年竣工の建物です。日本郵船碼頭の北東には、サッスーンの阿片倉庫がありました。

和平飯店
和平飯店 Peace Hotel

上海一の繁華街、南京路です。現在は外灘から人民公園までを南京東路といいますが、千歳丸が上海に来ていた頃は、租界から競馬場までの道ということで大馬路とも呼ばれていました。今も昔も上海で最も賑やかな通りです。千歳丸のメンバーも大馬路に買物に出かけ、書籍などを購入していたようです。

南京路
南京路 Nanjing Road

南京路の老舗文具店。文房四宝を初め、書画や骨董などを扱っています。1900年創業だそうです。広い店内には、筆、硯、墨、紙のほか、印材や朱泥など中国らしい品物が果てしなく並んでいて、見ていて飽きません。

南京路の文具店
南京路の文具店 Stationer’s at Nanjing Road
南京路の文具店
南京路の文具店 Stationer’s at Nanjing Road

南京路の老舗刃物店。たいへんな人気店で店の中は常に人でいっぱいです。看板には1628年創業と書いてあります。もとは杭州にあった店で、上海の店はそこまでは古くないようです。

南京路の刃物店
南京路の刃物店 Knife Shop at Nanjing Road
南京路の刃物店
南京路の刃物店 Stationer’s at Nanjing Road

人民広場駅に着きました。よくたどり着けたと思うくらい、南京路は人で埋め尽くされていました。

人民広場駅
人民広場駅 People’s Square Station

<住所>
上海港国際客運中心:上海市虹口区東大名路500号
公平路輪渡站:上海市虹口区公平路1号
泰東路輪渡站:上海市浦東新区浦東南路1号
上海船廠濱江緑地:上海市浦東新区濱江大道
和平飯店:上海市黄浦区南京東路20号
朶雲軒:上海市黄浦区南京東路422号
上海張小泉刀剪総店:上海市黄浦区南京東路490号

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五代友厚 千歳丸の帰国(2)
Godai Tomoatsu, Senzai-maru Returns to Japan (2)

精霊流し
精霊流し 川原慶賀画 The Bon Festival in Nagasaki by Keiga Kawahara (National Museum of Ethnology, Leiden)

一行は文久2年7月1日(1862年7月27日)までに千歳丸への乗船を終え、船長以下新たに雇い入れた10名のオランダ人とともに出帆を待った。運上所の手続き等に手間取り、7月5日にようやく抜錨した際には、宿泊していた宏記館の屋上に数十人が集まり、手を振って見送ってくれたという。7日から8日にかけて波が強く皆船酔いし、血を吐く者までいた。9日からは一転弱風で船が進まず、昼は囲碁、腕相撲、角力、夜は軍談や烏賊釣りで憂さを晴らす。13日には伊王崎に達していたが、風向きが悪く14日の日没頃になってようやく長崎港に着船した。

日比野輝寛は、日本に戻って清潔で冷たい水で顔を洗ったとき「水に対し嘆息す」と言っている。上海の濁水でつらい思いをしたためだ。日本はちょうど盂蘭盆で、長崎の人々が酒肴をたずさえ墓前に火を灯す様は「燈火また山を焼くごとし」、藁と紙でつくった幾千万の船に提灯をつけて海上へ流し、銅鼓や人声が明け方まで止まなかったという。

上海滞在中、五代友厚としきりに蒸気船の話をしていた高杉晋作は、帰国して4年が経った慶応2年4月、長崎で英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)から丙寅丸(へいいんまる)を購入した。五代はこの年の2月に欧州視察から戻って長崎に在勤していたから、来崎中の高杉と交流があったことは間違いないだろう。高杉の遺品には、欧州で撮影したとみられる五代の写真がある。慶応2年5月26日(1866年7月8日)付五代から高杉宛て書簡には、桜島丸の引き渡しや小銃調達のことが書かれている。また、五代は高杉から反物を贈られたようで、これに対し五代は「これまでの周旋は、お互いに国家の危急を救うための交わりであり、このような謝礼等に預かるのは実は心外である」と書き添えている。

The Senzai-maru ship set sail from Shanghai on 27th July 1962 and arrived in Japan after a 10-day voyage.  About 4 years later, Godai Tomoatsu associated with Takasugi Kenshin who had tavelled to Shanghai together, again in Nagasaki.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年

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五代友厚 千歳丸の帰国(1)
Godai Tomoatsu, Senzai-maru Returns to Japan (1)

南京路
南京路 Nanking Road (Virtual Shanghai)

帰国の日が決まると、千歳丸の各人は日本へ持ち帰る土産や書籍を買ったり、現地で知己になった人々に挨拶に行くなど忙しい毎日を過ごした。この間の五代友厚の動向は定かではないが、長崎商人松田屋判吉の日記には、6月24日(1862年7月20日)に「中山公森寅五代鐡利此方遊所芝居見る」とあり、五代が長崎会所の役人や商人と行動をともにしていたことがわかる。

当初、日本側は中国の他の開港地、つまり広東、厦門、福州、寧波にも立ち寄りたいと考えていたようだ。しかし、条約なき故、上海一港での商品の販売は許すが、中国の品は購入せず、売上金を持ってすみやかに帰国するよう中国側から告げられていたため、千歳丸が他の都市へ寄港することは叶わなかった。

実のところ、太平天国の乱による騒擾などで千歳丸が持ち込んだ商品は半分も売れず、難民の流入で人口が急激に増加した上海は衛生状態も悪く、千歳丸からコレラによる死者が3人も出た状況では、早々に帰国するのが賢明との判断もあっただろう。また、日本の時局も激しく動いていた。

幕府は千歳丸を貿易船として上海に派遣したが、商売のみが目的だったわけではない。5月の終り頃、幕吏は在上海オランダ副領事のクルース(Theodorus Kroes)に上海港の入港手続き、港湾警備、出入国税、輸出入禁制品、燈台や澪標のことなどを事細かに質問している。幕府は迫りくる日本各地の開港を前にかなり周到に準備を進めており、開港して20年の上海は、貿易港の運営や欧米列強とのつきあい方を知る上で、この上ない視察先だったのである。

Tokugawa Shogunate sent the Senzai-maru ship to Shanghai in order to observe Chinese open ports.  This observation helped Japan prepare its own open port.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年

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