
英艦で横浜に着いた後、寺島宗則と五代友厚が最初に入った宿は、日本橋小舟町にある船宿であった。当時、このあたりは堀留川の水運を利用した船荷問屋が多く集まり、諸国より運ばれてきた物産を商う問屋や商店が軒を並べる非常に活気あふれる場所で、船員らが寝泊まりする船宿もいくつもあったという。清水卯三郎は、表立った動きのできない寺島と五代によかれと、雑多な人々が出入りするこの場所を選んだのかもしれない。船宿に二晩泊り、翌々日の朝、寺島と五代は卯三郎の実家がある武州羽生村(現在の埼玉県羽生市)へ向けて出発した。文久3年7月14日(1863年8月27日)のことであった。
寺島と五代が姿を消し、薩摩藩では当然ながら二人を探し回るもなかなか見つからない。二人の潜伏中、薩英間では数回に渡る談判が行われていた。文久3年10月5日(1863年11月14日)の会談で和睦が成立すると、薩摩側は英側へ次のような質問を投げかけた。
一 貴国軍艦に乗組ませ被連趣候士官両人(寺島・五代)、此方へ引渡し呉候様いたし度候
一 右両人御当地へ、屹と上陸いたし候哉
一 軍艦を以て箱館へ相廻し、又は英国へ被送候様承知致候
一 右両人神奈川へ上陸いたし候哉、横浜へ上陸いたし候哉
一 何様に小舟に候哉
一 何日に両人上陸いたし候哉
両人は己の意志で横浜へ来たのであって、船中でも丁寧に取り扱った。両人の求めにより、著船したその日に彼らは小舟に乗り本船を離れた。それ以降のことは関知していない、というのが英側の返答であった。実際のところ、英側は五代らが江戸周辺にいることは薄々知っていたであろう。卯三郎がこのように書いている。
五代氏の手紙を持て横浜へ行き、イギリス公使館の書記ガバ氏を訪れ、かくかくとありしことを語らひはれば、ガバ氏、金五十両を取り出し、五代に渡してよと言ふ。すなわち受け取り五代氏に届けたれば、氏は大いに喜び、これにてしばらく心安しと言へりき。これより二度三度二十両三十両づつ取次たることありき。
すこぶる大金である。五代は長崎からグラバー(Glover)などを通じて、必要な金を送金してもらっていたのかもしれない。英側は、二人の動きを知り得たとしても口外しないと決めていたのだろう。
江戸では、さらに松本良順の助けがあったと言われる。松本良順は、寺島宗則と同じく医師で、寺島と同じ天保3年生まれ、五代より3才年上である。江戸に生まれ、実父である佐倉藩の藩医佐藤泰然の下で蘭医学を学び、その後長崎でオランダ人軍医ポンぺ(Pompe)から西洋医学の教えを受けた。同時期、五代は長崎海軍伝習所で学んでいたから松本良順のことを知っていたし、さらには、卯三郎も佐藤泰然からオランダ語を習ったことがあったという。長崎にいた松本がこのタイミングで江戸へ帰っていたのも運に助けられた。
<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
福澤諭吉『福翁自伝』1899年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年