五代友厚 薩英戦争その後(1)

日本橋堀留
日本橋堀留(江戸名所図会) Nihonbashi Horidome (Edo Meisho Zue)

薩英戦争で捕虜となった寺島宗則(松木弘安)と五代友厚は、英艦ユリアラス(Euryalus)に乗せられ横浜に到着するや、すぐ自由の身となり、闇夜を小舟で渡って生麦付近に上陸した。文久3年7月11日(1863年8月24日)のことであった。薩英戦争直後の寺島と五代の行動については、五代らを助けた武州羽生村の商人清水卯三郎、清水や寺島と懇意であった福沢諭吉、寺島宗則の自叙伝、薩摩と英国の談判の記録等に記されている。それぞれ若干の差異はあるが、大筋は次のようなものである。

寺島と五代は、通訳として乗り込んでいた清水卯三郎に艦上で出会う。卯三郎は商人ながら蘭学に志があり、英語を学び、寺島とは以前より顔見知りであったという。横浜で、五代らはユージン・ヴァン・リード(Eugene Van Reed)というアメリカ商人に上陸の手助けを依頼した。卯三郎と寺島はこの米人とも知り合いであったらしい。卯三郎は、ヴァン・リードに8時頃までに生麦渡りへ乗りつけるよう頼み、寺島・五代とはこう言い交わした。

所々に見張りの番所あり、君たちもよく心し給へ、馬駕籠には必ず乗り給ふなよ、馬子や雲助の口より事表れしこと多くあり、必ず慎み給へ、我はこれより横浜に上がりて、運上所に免状を返し、すぐさま江戸へ行き、小舟町の「はこべしほ」に宿り、待ち居れば、君たちはその隣りの「すゞき」という船宿あり、これに来たられよ、宿屋は旅人の出入り繁ければ、事の漏れ易きを恐る、必ず誤り給うなよ、遅くとも夜明けまでには届くべし

しかし、寺島と五代は、翌朝8時を過ぎても9時を過ぎても来ない。わずか七里の道のりにこれほど暇取るとは、もしや捕われたかと卯三郎は心配するが、ようやく11時を過ぎた頃、二人が山駕籠に乗って現れた。聞けば、漕ぎ出たものの風の具合で舟は進まず、陸に上がれば月もなく星も見えない暗闇の中、さぐりさぐり足を進めるうち夜も明け、やむなく駕籠に乗り顔を隠してやっとたどり着いたのだという。

<参考文献>
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
福澤諭吉『福翁自伝』1899年

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