約2ヶ月の上海滞在中に、五代友厚は蒸気船サー・ジョージ・グレー号(Sir George Grey)を購入し、薩摩藩はこれを青鷹丸と名付けた。一行が帰国の途についたのは7月5日であったが、悪天候などもあって長崎に到着したのは7月14日。上海ではコレラが流行し衛生状態も悪かったため、現地で乗員3名がコレラの犠牲となった。帰国後も体調の優れない者が多かったようだが、五代は蒸気船の購入と清国の状況を報告すべく、すぐさま江戸へ向かう。
長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が山田亦介と兼重譲蔵に宛てた文久2年8月13日付の手紙によれば、五代はこの日金谷にいた。木戸は夜7時ごろ(酉之半刻)金谷に到着し、すぐに五代を訪ね、8時ごろ(五つ時)より数時間話し込んで、この手紙を書いているのは夜中の2時(八つ時)とある。木戸は「三郎様御発駕」、つまり島津久光が江戸を出発する日を五代に尋ねたが、五代は知らなかったようだ。しかし、その後定宿から「十七日廿一日両日中に御発駕」との情報を得る。五代は木戸らと同道し、江戸に着いたら直ぐに薩邸へ誘引すると申し出た。久光の出発前に到着できるよう、8月14日に三島、15日に藤澤、16日昼に江戸着という算段であった。
木戸は五代について「今日迄之次第逐一吐露仕候処、五代大に同意之趣に付、委細之次第小松(帯刀)中山(尚之介)大久保(利通)等へも相談し、屹度三郎様御承知被成候様周旋仕度段申居申候」と伝えている。手紙には、牧兵助という薩藩士の荷物を見かけたが、これは堀小太郎の変名ではないかと五代に尋ねたことや、五代の下人が「大坂より三郎様御伺に参り候人夫とて五十人程止宿仕候よし其ものとも之話に三郎様は今度木曽路御登りに相成候」という話を聞いて帰ってきたことなども記されている。この前年に薩摩の芝藩邸は放火の被害にあっているが、実はこれが藩主の参勤を遅らせるための自焼行為であったことが幕府に知れ、堀小太郎(伊地知貞馨)は主犯格として藩の処分で帰国を命じられていた。こうした薩摩藩の一連の行為に、長州藩はかなり神経を尖らせていたようだ。
木戸は、金谷を出発後、同じ日付で再び兼重らへ手紙を送っている。兼重は長州藩世子毛利元徳(定広)に随従し、8月3日に京を出て江戸へ向かっていた。世子には是非19日に江戸に到着して、すぐに勅使に面会して欲しいと言い、また「三郎様にも御発駕御延引にて世子君と両三度は少くとも是非四五度位は御互に御往来被爲成候て御自説をも御双方御頼被爲成度」とあり、薩長が互いに自論を吐露すべきであると述べている。
木戸は予定通り16日に江戸へ到着し、勅使の旅館と薩摩藩邸の間を往来して周旋。遅れて18日に品川に到着した毛利元徳は、19日に勅使の大原重徳と島津久光を訪ねるが面会叶わず、20日にようやく両人と会って話をした。しかし、木戸の望んだ四、五度の往来は実現せず、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老職就任を見届けた久光は、予定通り8月21日に江戸を発した。その日の午後2時ごろ、薩摩藩の一行400人余りは生麦村通り過ぎようとしていた。そして、チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson)らイギリス人4人が、この行列に騎馬のまま入り込み、薩摩藩士に斬りつけられる事件が起こる。生麦事件である。
<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
日本史籍協会編『木戸孝允文書 一』1929年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
山口県『防長歴史暦 中』1943-1944年