文久2年、五代友厚は上海へ渡航した。4月29日(1862年5月27日)に長崎を出港し、上海に2ヶ月ほど滞在する間に、薩摩藩のため蒸気船を購入する。幕船千歳丸に乗船するにあたり、五代は3月16日に鹿児島を出発して東上途中にあった島津久光を追い、その許可を得たという。
久光は、馬関(下関)より蒸気船天佑丸に乗船し、1000人もの藩兵を率いて4月2日に播磨の室津に上陸した。五代は長崎在勤であったから馬関で合流したのかもしれない。御船奉行副役であったから、天佑丸に同船して随行した可能性も高い。上海で新たな蒸気船を購入するにあたり資金も入用であるから、そうした話し合いもあったであろう。
天佑丸は原名をイングランド号といい、万延元年12月(1861年2月)に薩摩藩が12万8000ドルで購入した。川南清兵衛と五代が長崎で買入れに関わっている。生麦事件を発端とした文久3年の薩英戦争の際、五代は天佑丸の船長であったが、船はイギリス艦隊により拿捕され焼失している。
文久2年4月16日に入京した久光は、公武合体による幕政の改革をはかるため、改革趣意書九箇条を朝廷に呈した。勅使として公卿の大原重徳をたてると、久光はその護衛ということで兵を率いて5月21日に京を発ち、幕府改革三事策をもって江戸へ向かう。三事策とは、将軍が上洛して国是を議する策、五大老を設置して国政に参与せしめる策、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽(慶永)を大老職となす策のことである。
一方、五代は、文久2年4月27日(1862年5月25日)に水夫として千歳丸に乗り込み、4月29日長崎を出帆、5月6日に上海に到着した。千歳丸には長州藩の高杉晋作も乗り込んでいた。到着して1ヶ月が経った頃、五代は郷里から受け取った手紙で、4月23日に起こった寺田屋事件のことを知る。高杉に話すと、高杉は慨然として、直後に蘭館で地図と短銃を求めたという。
<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
宮本又次『五代友厚伝』1980年