五代友厚が探鉱を命じ採鉱が始まった神子畑の銀は、生野の精錬所にその鉱石が運ばれ、選鉱・製錬が行われていた。当初、運搬には牛車と手引車を使ったが、明治16年(1883年)4月から2年に渡る大工事の末、神子畑から羽渕を経て生野まで16.2キロ、幅員3.6メートルの馬車道(鉱山軌道)が整備された。この馬車道は生野と姫路の飾磨津港を結ぶ生野鉱山寮馬車道とつながっており、産業輸送道路として重要な役割を担った。
馬車道のため神子畑川には5つもの鋳鉄橋が架けられた。橋梁の材料は、木、石、鋳鉄、錬鉄、鋼鉄と変遷するが、過渡期につくられた全鋳鉄の橋は日本においては稀で、現存するのは神子畑と羽渕の二橋のみである。産業革命の象徴として知られるイギリスのアイアンブリッジ(The Iron Bridge)も鋳鉄製だが、アイアンブリッジは1779年の完成だから、日本より100年以上も先行していたことになる。神子畑の鋳鉄橋は、御雇外国人の力を借りず、設計から施工まですべてを日本人が行ったとされ、美しい欄干や格子には日本的な特徴が見られる。
五代が神子畑に旧坑があることを知ったのは、宍粟郡冨土野赤銅山へ向かう途中であったという。赤銅山は、神子畑の北西約8キロ、明延と連なる宍粟市一宮町倉床の銅山であろう。同じく倉床にある大立鉱山は、明治7〜8年頃に生野の山原某という人が探鉱に着手し、明治13年に五代が開坑したとされる。同じく倉床の大身谷鉱山も五代が所有していた。官営の生野鉱山は別として、生野の支山の多くを五代が経営していた。
倉床の赤金銅山は後に赤松力松の所有となっている。赤松力松はおそらく播州の人であったと思われるが、五代の鉱山関係の書類にときどき名前が出てくる。赤松力松は、自分の住所として五代が大阪で住んでいた靭北通一丁目と同じ住所を書いており、五代はこの住所の後にたいてい「寄留」と書いているから、五代が住んでいた家は、もともとは赤松力松の所有地だったのかもしれない。五代友厚関係文書の中に「地券写 赤松力松所有地」といった書類も見られる。
<参考資料>
鉱石の道推進協議会『鉱石の道 近代化産業遺産エリア』2014年
「“五代様”政府に先立ち朝来で探鉱 資料見つかる」『神戸新聞』2016年1月30日
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年
宮本又次『五代友厚伝』1980年