神子畑(みこばた)の開山は平安時代に遡り、戦国時代盛んに採鉱されたが、生野の繁栄に伴い休山した。神子畑は、生野銀山の北西16〜17kmの場所にある。神子畑鉱山は明治11年(1878年)に良好な銀鉱脈が発見され、明治10年代から30年にかけて最も繁栄した。明治40年以降は鉱脈が減少し、明治42年に神子畑のすぐ北の明延鉱山で錫鉱脈が発見されたことから、神子畑は明延の鉱石の選鉱場として生まれ変わる。錫に加え、銅と亜鉛の選鉱も行うようになり、昭和の初めには東洋一といわれる施設を誇っていた。
明治初年に神子畑の鉱脈探しを指示したのは五代友厚であるという。2016年1月30日付神戸新聞の記事によれば、五代は、宍粟郡冨土野赤銅山経営の途、神子畑に旧坑あるを探知し、部下の加藤正矩に命じて探鉱を始めた。加藤は明治6年より探鉱に着手、山案内は山内与三右衛門といった。これらの記録は、地元の郷土史家、故山内順治さん(1881~1969年)の手記に残されていたもので、朝来市の郷土史料館「生野書院」の小椋俊司館長が、山内順治さんの孫である山内隆治郎さんからから借りた文書の中から発見したという。手記を記した山内順治さんは、加藤に山案内をした山内与三右衛門さんのご親族であろうか。
明治10年頃、少量の鉱石を牛にて背積けて生野鉱山へ納入せりとあるから、選鉱は生野鉱山で行っていたらしい。明治15年には坑夫100人以上が入山したとあり、採鉱が盛んになった様子が伺える。神子畑の主要鉱脈を擁する「加盛山」の命名は、加藤正矩の加を用いたものという。山内隆治郎さんが保管する別の手記には「神子畑を通る際、間歩谷に着眼した」「加盛山の坑口は案内人が休みの日に見つかった」などの記載もあるという。山内さんは関係者への聞き取りなどから独自に調べたとみられ、加藤を案内した人物や作業員の宿までかなり具体的な記録が残されている。
<参考資料>
鉱石の道推進協議会『鉱石の道 近代化産業遺産エリア』2014年
「“五代様”政府に先立ち朝来で探鉱 資料見つかる」『神戸新聞』2016年1月30日