五代友厚 生野銀山と朝倉盛明(2)

明治9年の生野銀山
明治9年の生野銀山 Ikuno Mine in 1876(『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』より)

慶応3年(1867年)に帰朝した朝倉盛明は、薩摩藩開成所に勤務したが、慶応4年初めに中井弘が五代友厚に宛てた手紙には「モンブラン・朝倉同道ならば望外なり」とあるから、モンブランの通訳などもしていたようだ。薩摩藩英国留学生を五代とともに引率した寺島宗則(松木弘安)は、この頃外国事務局判事として横浜に駐在していて、8月に「当港仏通事なく朝倉静五を此方へ御廻し下されたし」と五代に手紙を書き送っている。五代はこれを断ったとみえ、朝倉はこの後すぐ会計官鉱山司判事試補に抜擢され、仏人鉱山師ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)とともに生野銀山へ赴くことになった。人選には五代も深く関わっていたものと思われる。間もなく朝倉は鉱山長となり、コワニェと二人三脚で官営生野鉱山を日本一先進的な鉱山へと導くのである。

朝倉が作成した報告書「生野鉱山景況書」によると、朝倉とコワニェは、明治元年(1968年)9月に「太盛各坑を始め金香瀬其他近傍中瀬金山等悉く点検し」、10月に「登阪の上、先ず銅鉱開拓の議を定め、溶鉱器械購入のため横須賀に至り日ならずして帰阪」、12月に「再び生野に到り、山相測量より建築の地形、水路等を検閲す」とある。明治2年正月には出張鉱山司仮役所を設置し、2月に鉱山学校を開設した。着任早々2人が非常な熱意をもって仕事に取り組んでいたことがわかる。

明治4年10月、生野銀山で播但農民一揆に端を発した焼討ち事件が発生する。コワニェは器械購入と技師雇用のためフランスに一時帰国中、朝倉も大阪出張で不在の中の出来事であった。3年余りを費やして建設した建物と器械設備のほとんどは灰燼に帰した。首謀者は捕らえられ、斬首・絞罪を含む厳しい処分が行われたという。朝倉は官の命を受け、コワニェが12月に帰任するや生野銀山の再建に邁進した。製鉱所のみならず、仏人技師たちのための異人館建設や、物資輸送用の「生野鉱山寮馬車道」なども整備した。さらに仏人医師を雇い常駐させたことは、朝倉が元々医者であったことと無関係ではあるまい。

明治9年、ようやく第二期建設計画を完遂し落成式が行われる。工部卿伊藤博文が臨席した。翌年1月にコワニェは明治政府との契約を終えフランスへ帰国、10年間共に歩んできた朝倉は寂しく感じたのではないだろうか。

五代が本格的に鉱山事業に乗り出し、弘成館を設立したのが明治6年である。五代は生野銀山に連なる神子畑の鉱山開発に関わったとも言われ、朝倉とのつながりは終生続いていたと考えられる。明治11年3月15日に朝倉が五代に送った書簡には「当鉱月々七、八千円位の純益あり」とある。五代が所有し最も利益を上げていた天和鉱山が年に3万円ほどの利益であったというから、生野銀山がいかに巨なる山であったかがわかる。

生野銀山は明治21年に帝室財産となり、朝倉は、明治26年(1893年)に宮内省御料局理事・生野支庁長として退官した。その後京都に隠棲し、大正14年(1925年)1月24日、81歳で亡くなっている。

<参考文献>
生野町中央公民館「歴史をつなぐ会」編『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』1994年
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
太田虎一『生野史 校補 鉱業編』1962年

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