五代友厚 生野銀山と朝倉盛明(1)

朝倉盛明
朝倉盛明 Asakura Moriaki

御雇外国人ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)とともに生野銀山の近代化に精力を注いだのは、薩摩出身の鉱山長朝倉盛明(田中静洲、田中静吾)であった。朝倉は天保14年11月23日(1844年1月12日)、薩摩藩士田中伊平衛の次男として生まれ、元の名は田中清洲といった。五代より8歳年下である。慶応元年(1865年)に薩摩藩英国留学生として渡欧した際、朝倉省吾という変名を与えられ、帰国後も朝倉姓を名乗った。

朝倉は、10歳の頃より萬膳玄正に医学を学ぶ俊才で、その後石川確太郎に蘭学、長崎に出て松本良順やポンペから医学を学んだ。元治元年(1864年)には薩摩藩開成所で句読師を務めるようになり、このとき五代の上申書が採択されて派遣が決まった薩摩藩英国留学生の一人に選ばれた。朝倉はイギリスに滞在した後、同じく留学生の一人で同い年の中村宗見(博愛)とフランスへ留学先を移した。パリのシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)宅に寄宿しながらフランス語や鉱山学を学んだという。朝倉と中村はともに医者で、留学先でも朝倉は医学、中村は化学を学ぶ予定であったが、帰朝後朝倉は鉱山長、中村は外交官として維新後の日本を支えることになったのは、二人にとって思いがけない運命であったかもしれない。

慶応3年(1867年)のパリ万博で、朝倉と中村は、薩摩藩が出展したブースの現地対応や通訳の任を果たした。薩摩藩の出展は、五代が渡欧中にモンブランと協調し道筋をつけたものであったが、日本が初めて正式に参加したこの万博で、幕府とは別に薩摩藩が独自のブースを設けたことは大いに物議を醸した。朝倉は、会期途中の慶応3年夏に帰国の途に就いている。

<参考文献>
生野町中央公民館「歴史をつなぐ会」編『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』1994年
岩松暉『実戦的地質学の源流としての薩摩」『鹿児島県地学会誌 62』1989年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年

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