兵庫県朝来市にある生野銀山とその周辺を訪ねました。
観光施設となっている金香瀬地区の「史跡 生野銀山」で坑道を見学します。入口にある石柱は、鉱山司生野支庁の正門に建てられていた門柱で、昭和52年(1977年)にここに移設されたそうです。
生野銀山は日本初の官営鉱山であったことから、門柱には菊の御紋が配されています。この門柱は、明治9年に御雇外国人ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)により築造されました。
門の脇に古い赤レンガが積まれていました。明治4〜6年頃にコワニェが建造した選鉱所の一部を保存したものだそうです。当時赤レンガは生野でつくられていたということです。生野銀山は、日本の近代化鉱業の模範鉱山として最新技術が取り入れられており、建造物も先進的でした。五代友厚も当然視察に訪れたことがあったのではないでしょうか。
入館料を払い、生野代官所と書かれた門をくぐります。徳川家康は生野銀山に但馬金銀山奉行を置きました。天領となった生野銀山は徳川幕府の財政を支え、奉行所はやがて生野代官所となります。
徳川幕府が崩壊し、明治元年より新政府直轄の官営鉱山となりますが、明治22年には宮内省御料局が管轄する皇室財産となりました。その後、明治29年に三菱合資会社に払い下げられます。三菱金属がこれを承継し、昭和28年に閉山、壱千百有余年の幕を閉じることとなりました。
コワニェの胸像です。土台にはカラミ石といって、製錬する際にできたカスを固めた鉱滓のブロックが積まれています。
コワニェの生年は1837年が正しいようです。五代友厚より約1歳年下です。コワニェは1877年、40歳のときに日本を去りフランスへ帰国しました。
金香瀬坑口です。観光坑道として公開されています。金香瀬坑道の入口は、大きさの異なる石をアーチ状に組んだフランス式の坑口で、コワニェにより築造されました。石造りの坑口はかなり厚みがあり、しっかりした造りであったことがわかります。
坑口はフランス式ですが、その上には祠がのっています。危険がつきものの鉱山には山の神が大切に祀られていますから、ここは譲れないところでしょう。
坑道の見学コースは全長約1kmで、江戸時代から近代の採掘跡まで見どころいっぱいです。生野鉱山全体の総延長は350Km、深さは地下880mまで達しているそうです。ノミで人ひとりがやっと通れるほどの穴を掘り進む「狸掘」と呼ばれる江戸時代の採掘跡がたくさん残っています。
「太閤水」と掲げられた湧水です。豊臣秀吉が生野銀山を訪れた際、この水を飲んでそのおいしさを激賞し、茶を点てたとか。日本中あちらこちらに残されている「太閤水」は、結果的に秀吉の足跡を後世にまで知らしめる役割を果たしています。水がうまいと言っては茶を点てる、それは知略の人秀吉が考えた戦略のひとつだったのかもしれません。
生野銀山には「GINZAN BOYZ(銀山ボーイズ)」と呼ばれるハンサムなマネキンが点在しています。
滝間歩旧坑の入口です。金香瀬坑道のすぐ横にあります。滝間歩の坑口は、江戸時代の坑口を模したもので、「三ツ留」という鳥居をあらわした木造の坑口が再築されています。
「史跡 生野銀山」には、生野鉱物館、鉱山資料館、吹屋資料館という3つの資料館があり、それぞれ鉱山に関する様々な資料が展示されています。一角には、御雇外国人コワニェと薩摩藩出身の鉱山長 朝倉盛明が並んで紹介されていました。朝倉盛明は五代友厚らとともに慶応元年(1865年)にヨーロッパへ渡った薩摩藩英国留学生の一人です。コワニェと朝倉は二人三脚で生野銀山の近代化を推し進めました。
生野銀山に関係のあるフランス人のリストです。コワニェが呼び寄せたフランス人は20数名に及び、その家族も含めると50名近いフランス人が生野に滞在していたといいます。
フランス人たちが住んでいた異人館の写真です。手前の二階建ての建物が一番館、奥の平屋の建物が二番館といって、それぞれコワニェと鉱山技師のエミール・テオフィール・ムーシェ(Emile Theophile Mouchet)が住んでいました。ムーシェは明治2年に妻を同伴して来日し、子供が5人もいる大家族だったようです。コワニェ帰国後は、明治13年まで技師長を務めました。
ムーシェ邸の模型もあります。ムーシェ邸は明治20年に神子畑に移築され、神子畑鉱山の事務舎として利用されました。現在も資料館として保存されています。
コワニェらが持ち込んだであろう洋式の測量機器なども展示されています。
生野代官金香瀬番所と掲げられた門をくぐり奥に進むと鉱脈露頭や断層、江戸時代の坑口跡などを多数見学することができます。
「史跡 生野銀山」を出て、市川沿いを歩いてJR生野駅の方へ向かいます。市川に架かる小野大橋のたもとに石碑があり、その横にマロニエの木が植えられています。
このマロニエの木は、平成元年(1989年)にフランスから招いたコワニェの子孫とコワニェが卒業したサンテティエンヌ鉱業学校(École des Mines de Saint-Étienne)の校長らの手によって植えられたものだそうです。
市川の左岸、山裾の川岸に石垣を組んで造られたトロッコ道が見えます。金香瀬から太盛にある鉱山本部工場までの間に、明治4年(1871年)と大正2年(1913年)の2期に分けて建設された鉱山専用輸送路跡だそうです。
奥銀谷(おくがなや)に残る古い家々の間を下流に向かって歩いていくと、川の向こうに公園が見えてきます。市川新町河川公園、別名をコワニエ河川公園といって、明治時代に異人館が建てられていた場所です。先の写真のコワニェやムーシェの邸宅があったところです。
公園の奥は三菱マテリアルの敷地になっています。生野銀山は明治29年に三菱に払い下げられていますから、元はこのあたりも異人館の敷地だったのでしょう。
市川沿いの国道429号に戻ると、岩場を掘った小さな穴がありました。「徳川時代の銀採掘跡」だそうです。
国道429号をさらに進み、大量のカラミ石を使ったブロック塀の横を通り過ぎます。
三菱マテリアルの生野事業所です。ここにはかつて生野銀山本部と工場が置かれていました。この地は太盛(たせい)と呼ばれ、金香瀬と並ぶ大きな鉱床がありました。コワニェはヨーロッパから最新の機械を取り寄せ、ここに世界でも有数の近代的な鉱山工場群を造ります。鉱山学校も開設し日本人鉱山技術者の育成も行いました。
三菱マテリアルの敷地内には明治初期の煉瓦造りの建物などが残っていますが、通常は非公開です。近くの駐車場にそれらの建物の写真が紹介されています。
中門休憩所は明治23年(1890年)に建てられたもので、白いしっくいが塗られていますが中は煉瓦積みです。
旧混こう所は、明治8年竣工、砕いた鉱石から銀を取り出す作業をする場所でした。現在は三菱マテリアルの綜合事務所として利用されているそうです。
道を挟んで向かい側に立つ古い建物は生野鉱業所購買会跡です。三菱が福利厚生の一貫として大正時代に建てたもので、生鮮食品から洋服、電化製品、医薬品、床屋、食堂まで「ここに来ればすべて揃った」という生野町における小売の中心であったそうです。
太盛の全景です。明治時代と思われます。
金香瀬から口銀谷へかけての絵図です。異人館は太盛の鉱山本部をはさんで2箇所に分かれています。
異人館の三番館から五番館があったとされる場所です。鉱山本部の川向こう、南西の方角です。
<住所>
史跡 生野銀山:朝来市生野町小野33-5
マロニエの木:朝来市生野町奥銀谷
市川新町河川公園(コワニエ河川公園):朝来市生野町猪野々
徳川時代の銀採掘跡:朝来市生野町口銀谷
三菱マテリアル 生野事業所:朝来市生野町口銀谷985-1