
明治2年3月(1869年5月)、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)は改めて鹿児島を訪れ、12代藩主島津忠義に謁見してナポレオン三世から預かってきた品を贈った。また、この頃長崎のオルトマンス(Ortmans)の家に泊まったといい、1866年に同名の商人が来日したようだから、モンブランが連れてきた商人の一人を訪ねたのかもしれない。モンブランは、明治2年4月27日(1869年6月7日)に鹿児島と思われる発信地から母親へ手紙を送っており、九州滞在はひと月以上に及んだようだ。
ちょうどこの手紙が書かれた頃、五代は新政府の仕事で大阪を離れ、築地梁山泊と呼ばれた東京の大隈重信邸に起居していた。『五代友厚秘史』によると、五代は大隈邸滞在中、横浜の本牧に住んでいたモンブランに会いに行ったという。モンブランは大阪へは戻らず、横浜へ居を移したようだ。モンブランはここでお政という日本人女性と暮らしていた。江戸から呼び寄せた美女もたくさんいて秘密御殿と呼ばれていたらしい。維新前には幕府側の役人もよく来ていたというから、モンブランはかなり前からこの家を維持していたのだろうか。
モンブランは1861年に来日した際、斎藤健次郎(白川健次郎、ジラール・ド・ケンとも)という日本人を伴って帰仏した。斎藤はモンブランの通訳を務めていたが、フランス語が十分とは言えず、自分の出自や経歴について述べることもいい加減であったという。五代も「仏国にて白川の通弁推考仕候処、よひ加減の事を始終申様なる心持ちにて」といったことを手紙に書いている。斎藤は1867年のパリ万博に関わった後、モンブランとともに日本へ戻っていたが、薩摩人の機密を幕府側に漏らした廉で「白川の嫌疑深くなりて大島金鉱探索の為めと称して連出し海没せし」と伝えられる。
明治2年10月、モンブランは日本の樺太境界問題に対し「樺太の事件は日本のみならず欧州各国に大関係あり」と、ロシアとの仲介を英仏両国に求めるよう建言した。明治政府はモンブランに皇国弁理職を仰せ付け、周旋を依頼する。フランスへの帰国が迫っていたモンブランは結局何もしなかったのだが、これを機に築地ホテルに宿泊するようになり、日本政府に高額な宿泊料を払わせていたらしい。
明治2年11月24日(1969年12月26日)、モンブランはついにラ・ブールドネ号(La Bourdonnais)に乗って横浜を出帆した。前田正名という薩摩人がモンブランに随行し同船した。前田はパリでフランス語を学ぶかたわら、モンブランの仕事を補佐したり、日本語を教授するなどしたらしい。前田は幼い頃から洋学を学び、長崎遊学中にヨーロッパから帰国したばかりの五代に出会っている。後に明治政府で殖産興業政策を進めたのも五代の影響が大きかったという。
幕吏田辺太一は、モンブランには奇を好む独特のくせがあったと述べている。モンブランが日本を愛したことは間違いなく、洞察力もあり頭も切れたが、虚栄心が強く一筋縄ではいかない人物であったようだ。五代としては渡欧中はもとより、パリ万博や維新直後の外国人対応で世話になり恩義を感じていたことだろう。しかし、モンブランの振る舞いに藩や政府との板挟みになることも多く、モンブランが帰国して一番安堵したのはひょっとすると五代だったかもしれない。
<参考文献>
ヴァンデワラ ウィリー『旅と政変 : 幕末明治初期を旅行したモンブラン伯 (白山伯)』「日文研叢書43巻」2009年
アジア歴史資料センター『柯太境界談判(外務省外交史料館)』1869年
五代友厚七十五周年追悼記念刊行会『五代友厚秘史』1960年
宮永孝『ベルギー貴族モンブラン伯と日本人』「社会志林47巻2号」2000年