五代友厚 五代秀堯(2)

小天地閣叢書「五代直左衛門惟宗秀尭」
小天地閣叢書「五代直左衛門惟宗秀尭」 Shoutenchikaku-sousho, Godai Hidetaka

西村天囚の小天地閣叢書に収められている五代友厚の父、秀堯の履歴を引き続き見ていきたい。

秀堯の子どもたちについては次のようにある。

二女 富 弘化元年甲辰二月八日死去 三十歳
嫡女 福 文政五年壬午十二月十二日死去 三歳 母
     隈元正左衛門女以下同
三女 槍 筿原伊平次妻
嫡子 競太 母本田七左衛門嫡女以下同 競太有二女
二男 宋次郎 天保四年七月某日死去 五歳
四女 □□ 天保五年 月 日死去 二歳
三男 才助
五女 信 祁答院仲右衛門妻

男三人現存二人女五人現存二人
都合八人現存四人

友厚(才助)には、姉が4人、兄が2人、妹が1人いたということになる。日付から判断するに二女と嫡女が逆のようでもあるが、一番上の姉は30歳、他3人の兄姉は幼くして亡くなり、三女広子(楯)、嫡男徳夫(競太)、三男友厚、五女信子の4人が残った。広子は先妻との子で友厚とはずいぶん年が離れているから、友厚が物心ついたころにはすでに嫁いで家を出ていたかもしれぬ。長男の徳夫と友厚は8つ以上年が離れており、あまり反りが合わなかったようだ。信子とは最もよく連絡を取り合い、その夫祁答院仲右衛門も鹿児島で友厚の事業に関係していた。

秀堯に関するいくつかのエピソードが記されている。

実母四本氏は秀堯に厳格な教育を施し、幼少の頃は素読のため未明より町田二郎九郎の所に行かせた。藤井助左衛門の所で数年性理学(儒学の一派)を研究し、また詩学も学んだ。

3人兄弟で姉と弟がおり、秀堯は陰ながら長年経済的援助をしていた。

文政10年(1827年)、安徳帝御潜幸に関する調査のため薩摩硫黄島へ渡海した。神器の真偽について調所氏も間に入ってやり取りがあったが、上様之御意に違背云々とあり、結局秀堯は御記録奉行に昇進して三種神器参考四巻を著述する。

安徳天皇は壇ノ浦の戦いに敗れ平氏とともに入水して命を絶ったとされるが、硫黄島へ逃げ延び余生を過ごしたという伝承があり、硫黄島には安徳天皇の墓も存在する。安徳天皇の末裔と言われる硫黄島の長浜家には「開けずの箱」が伝わるが、文政10年に島津斉興により派遣された薩摩の役人が、家人を遠ざけてこれを検閲したとされる。戦後になって学者立会いのもとこの箱を開けてみると、貴重な品故預り置くという内容の文書と漢鏡が入っていた。三種の神器のひとつ八咫鏡が入っていたところ、代わりの鏡と一枚の文書が入れられていたというわけである。

この宝鏡の召し上げに関わった薩摩の役人の一人は、つまり秀堯であったということになる。また、発見したとされる神器に関する報告書をまとめたのも秀堯であった。秀堯はこの後三国名勝図会の編纂に精力を注いでいたが、三国名勝図会の硫黄島の項に俊寛に関する記述はあっても、安徳天皇に関する記述はない。召し上げた宝鏡の所在もわからなくなっている。

三国名勝図会の編纂で秀堯は始終長詰、120ヶ都城のうち100ヶ都城を著述し、都合19年に及んでようやく成就した。この間にも藩に関わるさまざまな文書の作成にあたり、また以下の石碑の銘文を手がけた。

大信公神道碑銘、同碑陰記、揖宿捍海堤記、マエノハマ捍海堤記、仙巌江南竹記、仙巌喜鶴亭記、ゴマ所鐘銘、永安橋記、探勝園記など

秀堯には仏書をはじめとする大量の蔵書があった。これらは徳夫が引き継いだはずであるが、城ケ谷の五代邸は西南戦争の兵火で焼けてしまったから、秀堯の貴重な書物も一緒に焼失した可能性が高い。

<参考文献>
井上泰至 編『近世日本の歴史叙述と対外意識』「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興ー文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって / 鈴木彰 著」2016年
西村天囚輯『小天地閣叢書 乾集』「五代直左衛門惟宗秀尭」書写年不明

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