五代友厚 天和銅山と和田村(1)

和小学校ヘの寄付に関する文書
和田村小学校ヘの寄付に関する文書 Document regarding Donation to Wada Village Elementary School

奈良吉野の天和銅山は、五代友厚が手がけた最初の鉱山で、明治4年(1871年)に開坑して後、五代が明治18年に逝去するまで安定した利益を上げ続けた良鉱であった。天和銅山に対する五代の思い入れはひとしおであったはずである。大阪阿倍野にある五代の墓には、墓石から最も近い場所に「和州天和銅山職工中」と彫られた灯籠があって、天和銅山と五代の強い結びつきを推しはかることができる。

鉱山が開かれ盛況になると、山間部の人口が一時的にせよ爆発的に増える。天和銅山の全盛期には2〜3千人もの鉱夫が働き、毎日牛一頭を食用にしたというほどであったから、当然子供の数も増える。明治5年に学制が公布され、天和銅山のあった和田村にも小学校が設置されると、五代は鉱山で不要となった建物を小学校へ寄贈した。この建物は、県から鉱山労働のための「懲役人を拝借」するにあたり、明治5年に五代の経営する弘成館が建てたもので、明治9年より校舎として転用された。当時、懲役人を鉱山で外役させることは広く行われていたようだ。また、明治8年より11年まで和田村小学校へ350円を寄付し、明治12年からは年々100円を10年間寄付すると申し出たことも堺県の記録として残っている。

五代は、半田銀山など他の場所でも学校の設立や学費の寄付を積極的に行っていた。大阪市立大学の前身である大坂商業講習所設立の際も創立員として筆頭をなし、多額の寄付金や創立費を出している。五代は父や兄が薩摩藩の御用学者という家系で、教育に対する関心は高かったのだろう。東京出張中に妻である豊に宛てて「お竹へ学校へ参ずば、土産なしと伝言されたし」と書き送るなど、娘の教育にも熱心であった様子がうかがえる。

<参考資料>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年

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