五代友厚 天和銅山と和田村(2)

明治6年7月の天和山収支
明治6年7月の天和山収支 Income and Expenditure of Tenwa Mine in July, 1873

天和銅山では浦上キリシタンの信徒を使役していたこともあったようだ。江戸末期から明治初期のいわゆる浦上四番崩れで信徒たちは西日本各地に流配されたが、その一部は大和郡山藩にあずけられた。明治5年末、郡山にいた百余人の信徒のうち12歳〜20歳までの男女をのぞく全員が和田村の永豊寺と栃尾村の光願寺に移され、強壮な男子は天和銅山の採掘や運搬に駆使されたという。女子は何らの苦役も課せられなかったが、労働すれば物が十分に食べられるのでむしろ進んで労働に服したという。浦上キリシタンは明治6年春に釈放が決定され、天和銅山の信徒も子供たちと合流の後、5月には全員長崎へ帰着したというから、天和銅山で労働に従事していたのは3ヶ月ほどであっただろうか。

鉱山の開発は周辺の村々の発展も促した。和田村からは五条へ出るにも下市へ出るにも険峻な山坂難路であったが、天和鉱山と県、地元がそれぞれ費用を負担し牛馬が通行できる新道が開かれた。架橋、流水堰、井戸、水路などの普請もまた鉱山が工事費を出すことにより進んだ。和田村の永豊寺には寄進者として嗣子五代龍作の名前が残っているが、友厚の時代から村との協力関係は続けられていたものと推察される。

五代が天和銅山を入手した経緯は定かではないが、坂岡勇三郎が仲立ちをしたとも言われる。坂岡は鹿児島の人で、孫の坂岡勇次は鹿児島に五代友厚像を建立した人物である。坂岡勇三郎は龍作にも鉱山や殖林の世話をしたそうで、その関係で弘成館で働いていた伊藤豹三郎と親しくなり、豹三郎の養子である伊藤銀三が創業した伊藤銀證券株式会社に坂岡勇次が専務として勤めていたということである。伊藤豹三郎は余技として庭芸に秀でていたので、牡丹の見頃には五代友厚の家族を招き喜んでもらっていたという話も残っている。

<参考資料>
浦河和三郎『浦上切支丹史』1943年
河本寛編『史蹟花外楼物語 −明治維新と大阪−』1964年
三俣俊二『津・大和郡山に流された浦上キリシタン』2005年

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