五代友厚 天和銅山(足跡篇)

奈良県吉野郡の天和銅山跡を訪ねました。
数多くの鉱山を経営していた五代友厚が最初に手がけた山です。天和山の標高は1285メートル、銅山の坑口は山の中腹700から900メートルのあたりにありました。

天和山
天和山 Mt. Tenwa

天和銅山は天川村の和田にあります。下市から川合経由もしくは五條から阪本を経由して来ることができます。バスは近鉄吉野線下市口駅から出ています。

天川和田バス停
天川和田バス停

天川村の東から西へ天ノ川と呼ばれる川が流れています。その名にふさわしくたいへん美しい川です。十津川を経由し、熊野本宮大社の横を通り、熊野川となって和歌山の新宮で海にそそぎます。

天ノ川
天ノ川 Ten’nokawa River

オレンジ色のひときわ鮮やかな建物は和田郵便局です。この郵便局の開設は明治7年(1874年)で、郵便事業が始まったのが明治4年ですから、非常に早い時期に開設された郵便局のひとつと言えます。天和銅山が盛況だった頃に設置されたわけです。

和田郵便局
和田郵便局 Wada Post Office

郵便局のすぐそばに「天和鉱山跡(天和銅山跡)」の説明板が立っています。五代が明治18年に逝去して後、鉱山事業は娘婿の五代龍作が跡を継ぎましたが、天和銅山は明治中期にいったん休鉱したようです。五代家の手を離れて後は、昭和初期から1942年まで日本窒素、現在は三菱マテリアル所有とのこと。鉱山自体は1955年に休山となりました。
三菱マテリアルの前身は岩崎弥太郎の九十九商会で、三菱商会、郵便汽船三菱会社と社名を改めながら海運業を主業として隆盛しましたが、明治6年頃から鉱山や炭鉱経営にも乗り出しました。三菱鉱業、三菱金属として発展し、現在の三菱マテリアルに至ります。岩崎弥太郎は土佐出身で後藤象二郎や坂本龍馬と関係が深く、五代とも接点がありました。天保5年生まれで五代よりひとつ年上、五代と同じ明治18年に五代より半年ほど先に亡くなっています。

天和鉱山跡案内板
天和鉱山跡案内板 Tenwa Copper Mine Information Board

説明板横の橋を渡り、山を30分ほど登っていくと、銅山の坑口がありました。坑道への入口は当時いくつかあったようですが、これがいつの時代の何という坑口なのかはわかりません。

天和銅山坑口
天和銅山坑口 Tenwa Copper Mine Entrance

「民有地につき立入禁止」とあり、残念ながら中には入れません。

天和銅山坑口
天和銅山坑口 Tenwa Copper Mine Entrance

明治前半、天和銅山の全盛期には2,000~3,000人もの鉱夫が働き、毎日牛一頭を食用にしたと言われています。人夫の出入りが激しく従来の戸長だけでは戸籍事務の手が回らなくなったため、堺県は鉱業人の中から戸長役を出すよう要請し、五代の代理人が人選して明治9年に堺県へ届けを出しています。なぜ堺県かというと、奈良県は明治9年から明治14年まで堺県に、その後明治20年まで大阪府に併合されていたからです。当時の堺県知事は薩摩藩出身の税所篤で、五代とは強いつながりがありました。

天和銅山坑口
天和銅山坑口 Tenwa Copper Mine Entrance

坑口のすぐそばに焼鉱炉の跡も残っていました。石垣を築いた円筒形のものです。レンガで築造した長方形の炉もあったようです。焙焼には燃料として非常に多くの木を使い、また有害なガスも発生するため、周辺ははげ山と化したといいます。

焼鉱炉跡
焼鉱炉跡 Ruins of a Burning Furnace

鍰(からみ)もたくさん落ちています。からみは、鉱石から金属を製錬する際に溶けて分離した岩石で、その不要な岩石が冷めて再び固まったものです。ふつうの石より重く、黒光りしています。
仏人鉱山技師のジャン=フランソワ・コワニェ(Jean-François Coignet)によれば、天和銅山の鉱石や鉱脈、諸性質は、別子銅山のそれと甚だ類似しているということです。天和銅山と愛媛の別子銅山は距離的にはずいぶん離れていますが、両銅山ともすぐ北側を中央構造線が走っており地質が似ているのかもしれません。天和山のそばには大峰山脈の主峰で近畿最高峰の八経ヶ岳(1915m)が、別子銅山のそばには西日本最高峰の石鎚山(1982m)がそびえ、双方とも修験道の山として崇敬されています。

からみ
からみ

水の中に赤い石が見えます。銅を精錬したあとの石は鉄分が多く、酸化して赤くなっているのでしょうか。鉱山活動において水質汚染は避け難く、天和銅山も例外ではなかったといいます。

赤い石
赤い石 Red Stones

天和銅山の関係者のものと思われる墓石も残っていました。愛媛県下伊予国宇摩郡別子山村住人とあります。別子銅山にいた人が天和銅山に移り、ここで働いているあいだに亡くなったのかもしれません。

墓石(伊予)
墓石(伊予) Tombstone (Iyo)

別の墓石には越後国住人とあります。越後、つまり新潟には海をはさんで佐渡金山があります。
鉱夫が鉱山を渡り歩くことはかつて珍しいことではなく、そこには友子と呼ばれる鉱山労働者の相互扶助的な同職組合が一役買っていました。鉱夫の移動を保障することが、鉱山業全体にお ける労働力の流動性を担保することにつながり、鉱山側にも鉱夫側にも一定の利点があったのです。

墓石(越後)
墓石(越後) Tombstone (Echigo)

天和銅山の名残りを示す場所は、かなり険しい山の中にあります。遭難しないための準備と下調べが必要です。

五代友厚ゆかりの地
五代友厚ゆかりの地 The Places associated with Godai Tomoatsu

明治4年、五代友厚は天和銅山と紫園銅山を同時に入手しました。紫園は天和山の南西10キロほどのところにあって、江戸時代半ばより開発された銅山で、幕府の銅山役所もあったといいます。
紫園周辺へも行ってみました。

紫園山
紫園山 Mt. Shion

紫園は奈良県野迫川村にあります。人家らしきものは見当たりません。紫園の南に立里という場所があり、ここにも鉱山がありました。江戸時代半ばに掘り始めた当初は、金・銀・銅が産出したそうです。
紫園の地名は、天川村の塩野と同義でナ行の母音が脱落したものではないかということです。塩分の含有量が多い地域に「塩」や「渋」を用いた地名が多く、温泉や鉱山と関係する場合もあるようです。

紫園
紫園 Shion

古い石垣もところどころ残っていますが、いつの時代のものかははっきりわかりません。

古い石垣
古い石垣 Old Stone Walls

<住所>
和田郵便局:吉野郡天川村和田534
天和鉱山跡案内板:吉野郡天川村和田
天和銅山:吉野郡天川村和田
てんかわ天和の里:吉野郡天川村和田477
紫園:吉野郡野迫川村紫園

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五代友厚 天和銅山(2)

大和国鉱山表
大和国鉱山表(明治11〜12年頃)

五代友厚は、明治2年(1869年)に金銀分析所を開設すると、日本の古金銀貨幣を買い入れ、分析し、地金を造幣局に納入した。結果的に明治政府による新貨幣制度への移行を助けたといえよう。続いて明治4年、五代は天和銅山を開坑して鉱山業に進出した。

五代が鉱山業に進出したきっかけのひとつは、海外の鉱山や造幣局、金銀の分析技術を見てきたことにある。慶応元年(1865年)に薩摩藩英国留学生を率いて渡欧した五代は、英国オルダリー・エッジ(Alderley Edge)の銅山を訪れ、洋式の採掘や精錬方法を目の当たりにした。また、ベルギーのリエージュ(Liege)では、政府貨幣に用いるニッケルの精錬加工を見学し、ブリュッセル(Brussels)の貨幣機関所では、日本の判金及び弐歩金、壱歩銀を分離して金銀を秤量する様を観察した。

五代が慶応元年12月22日(1866年2月7日)にシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と交わした契約書には、以下のような事項が含まれている。

一、鉄製局 一、金山 一、銅山 一、錫山 一、石灰山 一、鉛山
右六ヶ条商社盟誓の上、土質学の達人を相雇ひ、国中普く点検して、其の場所に応じ至当の業を可相開候

五代が求めた「土質学の達人」たちは、1867年パリ万博に参加した薩摩藩使節らととも日本へやって来た。天和山を調査したことのある仏人鉱山技師のジャン=フランソワ・コワニェ(Jean-François Coignet)もその一人で、彼はまず薩摩藩に召抱えられ、次いで明治政府鉱山寮の御雇外国人となって生野銀山などの近代化に努めた。

天和銅山は、山の東西2ヶ所に主な坑口があり、海面2350尺(約715m)に本坑、2800尺(約850m)に盛和坑があって、和田村人家から8町(約873m)東南の渓川沿い、海面2100尺(約635m)の所に役所及び職工役夫の居宅数十棟が並んでいたという。坑夫使役には固定給の本番制と出来高給の請負制があるが、天和山は請負であった。焼鉱炉は石垣を築いた円筒形のものとレンガで築造した長方形のものの両種があり、熔解法は日本古来の山下吹と皮鞴吹を併用していた。明治8年頃、坑内に板鉄軌道を敷設し、鉱石は鉱車に積んで運び出していた。また、坑舗課が厳重に監督して乱掘を防いでいたという。

天和銅山の運営は、やや進歩的ではあるものの、急速に近代化を進めた生野銀山など官営鉱山に比べると旧来の名残を払拭しきれていなかった。しかし、非常に優良な鉱山であったことは確かで、五代の設立した弘成館は、玉石混淆の鉱山経営の中、天和銅山に支えられていたといっても過言ではない。

<参考資料>
齋藤精一『大和天和銅山ノ概況』「日本鉱業会誌 2(16)」1886年6月
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 天和銅山(1)

天ノ河
天ノ河(大和名所圖絵) Ten’nokawa River

実業家としての五代友厚が、最も力を注いだ事業のひとつが鉱山経営である。五代は明治2年(1869年)に官を辞すと大阪の今宮村に金銀分析所を開設し、各地から買い入れた古金銀貨幣をを溶解、分析し、地金を造幣寮に納めることで莫大な利益を得た。それを元手に鉱山開発へ進出したのである。

五代が初めて入手した鉱山は大和国吉野郡天川郷和田村の天和銅山であった。慶応4年(1868年)に鉱石が紫園銅山役所へ持ち込まれ、辛苦探鉱の末鉱脈が発見されたという。和田村へ95両、山林立木代金75両、発見者へ50両の計220両を支払うことで、鉱山司の役人神山雪江と森清之助が請負稼となった。銅山役所のあった紫園は天和山の南西10km余りのところにあって、江戸時代半ばより銅山の開発がなされていた幕府の天領であった。

翌年から鉱山開発の代償として和田村、栃尾村、九尾村の三ヶ村には月々100両ずつ支払われることにもなっていたが、経営に困難がともなったのか、明治4年10月に天和・紫園両鉱山を金壱万両で譲渡する旨神山・森両人から五代の代理人中井新八へ伝えられ、五代の経営へ移る。中井新八は大阪鰻谷の船橋屋という紀ノ庄(紀伊国屋九里庄三郎)出入りの骨董屋であったらしい。五代は金銀分析所設立の際にその別荘を借りるなど、紀ノ庄と懇意にしていた。

五代の鉱山購入に先立ち、明治3年7月、仏人鉱山技師のジャン=フランソワ・コワニェ(Jean-François Coignet)が、鉱山司の命をうけ大和国吉野郡の紫園山、高原山、初尾山、天和山、北山の各鉱山を調査している。コワニェは、天和銅山を「此処の鉱石は、鉱脈にしても、其他の諸性質にしても、別子銅山の鉱石と甚だ類似しているから、採掘して見ると、別子銅山と略々同程度の好成績をもたらすのではないかと考えられる」と記している。また、明治3年11月には、五代と土肥真一郎(土居通夫)がボードウィン(Albertus Johannes Bauduin)から借りていた金子を紫園及び天和銅山の荒銅で返済する旨、神山と中井の間で証書を交わしている。

おそらく五代は自らも天和山に赴き、この鉱山の将来性を見極めた上で購入したのだろう。その後、天和山東隣りの栃尾山、さらに東の北山郷赤倉山も五代が開坑するところとなり、紫園の南にある立里鉱山をも買おうとする動きがあったと言われる。天和山は、はじめの頃は年間3万円の純益があり、多い時には4ヶ月で7万4000円もあった。明治15年頃より低落の兆候が見られたが、五代が逝去するまで一貫して安定した利益を上げた鉱山であった。

<参考資料>
齋藤精一『大和天和銅山ノ概況』「日本鉱業会誌 2(16)」1886年6月
竹中久二雄編『山村社会経済誌叢書7 中国・近畿編3(奈良・吉野)』1973年
フランシスク・コワニェ著 石川準吉編訳『日本鉱物資源に関する覚書』1944年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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