五代友厚 生野銀山とコワニエ(2)

マリー・コワニエ
マリー・コワニエ Marie Coignet

明治政府が生野銀山に日本の近代化を牽引する模範鉱山としての役割を与えたことと、大阪に造幣局の創設が決まっていたことは無関係ではなかろう。生野銀山は大阪に最も近い鉱山のひとつである。生野は銀のみならず銅や錫も産出し、時の支配者が手中に収めては財源の源とした優良鉱山であった。しかし、お雇い外国人ジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)が初めて目にした生野鉱山は「殆ど廃棄せられたも同然で、作業場は大部分浸水状態であった」という。

コワニェが生野に到着したのは明治元年9月28日(1868年11月12日)で、銀山の役人が出迎え、銃隊に守られながら山の見分に向かった。生野の役所にはあらかじめ「近々仏人を伴った役人が出張するので、不作法無きよう」との布告が行政官より出ていたというから、外国人への襲撃事件頻発の折、政府が神経を尖らせていたのは当然といえよう。コワニェの当初の宿舎は西福寺であった。通訳は朝倉盛明(田中静吾、田中静洲)が務めた。朝倉は慶応元年(1865年)に五代友厚とともにヨーロッパへ渡った薩摩藩英国留学生の一人で、イギリスからフランスへ移り、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)宅に寄宿しながらフランス語を学ぶなどした。後に朝倉は生野銀山の長となり、コワニェと二人三脚で銀山の盤石の基礎を築き上げることとなる。

コワニェは出張が多く、始終生野にいたわけではなかったようだ。五代が所有する天和銅山や半田銀山をはじめ、九州・四国から北海道に至るまで各地の鉱山や地質を調査してまわり、大阪にもよく出張していた。明治4年には機械購入、職工夫雇い入れなどのためフランスへ一時帰国している。このときフランスから地質家、鉱山技師、坑夫、医師らを招き、総勢20数名のフランス人が生野銀山の仕事に従事するようになった。家族等も入れるとフランス人コロニーは50人近い規模となっていたようだ。

コワニェも夫人マリー及びその弟レオン・シスレー(Léon Sisley)を帯同していた。義弟シスレーは、コワニェより10歳年下の1847年生まれで、銀山と姫路にある飾磨津港を結ぶ馬車道を設計したことで知られる。コワニェが生野に到着した際の記録に「仏蘭西人三人」とあるので、マリーとシスレーはコワニェが来日した当初より行動をともにしていた可能性もあるが、明治4年に一時帰国した際に来日したという説もあり、状況としては後者の可能性が高いだろう。

『生野史』には「コワニーは厳格な性格で、為に総スカンを喰って居た。(中略)コワニーが生野に帰任する時は皆土下座をした。其中を彼は悠々四枚肩の駕籠で宿舎へ乗付けた。彼の風丰を恐る恐る偸み見て”髭の沢山生えたこわげなもんやな”と肩をすくめた」と書かれている。コワニェが厳格な性格であったことはその仕事ぶりからも察せられる。それ故朝倉はじめ政府筋から厚い信頼を寄せらていたのだろう。駕籠での移動は外国人襲撃の危険から身を守るためだったかもれない。コワニェは第二期建設計画を完遂し、生野銀山を名実ともに近代的鉱山とすると、明治政府との契約を終えて明治10年にフランスへ帰国した。

<参考文献>
生野町中央公民館「歴史をつなぐ会」編『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』1994年
今井功『地質調査事業の先覚者たち(6)フランシスク・コワニエ』「地質ニュース No.126」1965年2月
太田虎一『生野史 校補 鉱業編』1962年
フランシスク・コワニェ著 石川準吉編訳『日本鉱物資源に関する覚書』1944年

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