五代友厚 生野銀山とコワニェ(1)

ジャン・フランソワ・コワニエ
ジャン・フランソワ・コワニエ Jean-François Coignet

慶応3年(1867年)、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)は、薩摩藩との契約に基づき選抜した軍の士官や技術者を連れて来日した。そのうちの一人はジャン・フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)といって、ロワールのサンテティエンヌ鉱業学校(École des Mines de Saint-Étienne)を卒業した鉱山技師であった。コワニェはヨーロッパで数年間実務に携わった後、仏政府による調査隊に加わってマダガスカルやメキシコを探検したり、カリフォルニアの金鉱脈の探査に自ら赴くなど、冒険家の一面があったようだ。1837年生まれで五代友厚より1歳余り年下、来日時は30歳で、明治10年(1877年)までの10年間、お雇い外国人として日本中の鉱山地質をくまなく調査し、鉱山業の近代化に大きな役割を果たした。

モンブランとコワニェの接点は定かではないが、二人ともパリ地理学会(Société de Géographie)の会員であったというから、その関係でつながりがあったのかもしれぬ。1865年にモンブランが著した『Le Japon』には、日本の鉱物資源について産業及び貿易の観点から詳しく記述した箇所があり、モンブランが予てより日本の鉱山に興味を持っていたことがうかがえる。

長崎に到着したコワニェは、やがて鹿児島へ移り、薩摩藩に雇われて薩摩・大隅・日向の鉱山を1年かけて調査した。その間に維新となり、新政府は慶応4年7月に大阪の銅座役所を鉱山局とすると、コワニェをお雇い外国人として雇い入れた。9月に大阪で契約がなされた際、五代友厚は大阪府判事の職にあり、コワニェの雇い入れに五代の献言があったことは想像に難くない。コワニェは9月下旬、鉱山技師兼鉱学教師として但馬の生野銀山(現兵庫県朝来市)に赴任した。赴任前に大阪で銅吹所の見学などもしていたようだ。

生野銀山は、天文11年(1542年)に但馬守護職・山名祐豊が銀石を掘り出し、これを開坑の起源としている。織田信長、豊臣秀吉の直轄時代を経て、徳川時代には天領となり、佐渡金山、石見銀山とともに幕府の財政を支えた。

慶応4年1月(1868年1月)に戊辰戦争が始まると、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命し、薩長藩士300余名が山陰道へ向けて出陣した。1月14日、本隊が柏原から福知山へ向かう中、薩摩藩の折田年秀(要蔵)、黒田清綱らが生野代官所を占拠。生野は府中と改名され、折田は2月に府中の判事に任命された。折田は江戸に遊学して蘭学を学び、薩英戦争の砲台築造や鹿児島紡績所の技師館建設に携わった人物で、五代友厚や五代の兄徳夫とも親しかった。幕府の台場築造御用掛も務めた。明治3年に官を辞し、明治6年(1873年)より兵庫の湊川神社の宮司となった。

<参考文献>
生野町中央公民館「歴史をつなぐ会」編『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』1994年
今井功『地質調査事業の先覚者たち(6)フランシスク・コワニエ』「地質ニュース No.126」1965年2月
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
白井智子『幕末期の薩摩藩とお雇い外国人鉱山技師 : ジャン=フランソワ・コワニェの来日に関する新情報』「神戸大学国際文化学研究推進センター研究報告書」2018年
フランシスク・コワニェ著 石川準吉編訳『日本鉱物資源に関する覚書』1944年
モンブラン他『モンブランの日本見聞記ーフランス人の幕末明治観』1987年

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