五代友厚 モンブランの帰国(足跡篇)

これまで紹介した足跡の中から、シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)が訪れたであろう場所を集めました。

慶応3年9月(1867年10月)、パリ万博参加のため渡仏していた薩摩藩士一行とシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)ら外国人が長崎に到着しました。五代友厚も上海まで船で彼らを迎えに行っています。長崎奉行は外国人を長崎から出すこと反対しましたが、結局薩摩藩はモンブランらを伴い鹿児島へ出発します。モンブランはまず田ノ浦の清鏡院を仮宿とし、その後五代とともに指宿へ移りました。

第八代濱崎太平次像
指宿港 第八代濱崎太平次像 Ibusuki Port, Statue of Hamasaki Taheiji VIII

モンブランと五代は濱崎太平次邸に逗留します。濱崎太平次は薩摩藩の御用商人で、藩主島津家も指宿では濱崎太平次邸に滞在していました。

NTT西日本指宿
第八代濱崎太平次生誕の地 Birthplace of Hamasaki Taheiji
第八代濱崎太平次生誕の地碑
第八代濱崎太平次生誕の地碑 Memorial of Hamasaki Taheiji’s Birthplace
第八代濱崎太平次生誕の地
第八代濱崎太平次生誕の地 Birthplace of Hamasaki Taheiji

当時を知る故老の話では、モンブランは巨躯で、広い敷布団で仰向けに大の字に寝るのが好きだったということです。「あの和蘭(おらんだ)は仏蘭西の宮さんげなァ」とも言われていたそうです。

明治2年になり、フランスへ帰国することを決意したモンブランは、再度鹿児島を訪問します。12代藩主島津忠義に謁見してナポレオン三世から預かってきた品を贈りました。当日は御楼門より城内に入り、唐御門を通り、楼閣の入口に達すると、会計総裁の出迎えをうけ、階段をのぼり、御対面所に向かったとのことです。

鶴丸城跡
鶴丸城跡 Old Site of Tsurumaru Castle

モンブランが使用を許された御楼門は、この写真を撮ったときはまだ工事中でしたが、2020年3月に復元が完了しました。唐御門の礎石も2021年初めに発見されています。

鶴丸城御楼門(工事中)
鶴丸城御楼門(工事中) Tsurumaru Castle Groumon Gate (Under construction)

明治2年11月24日(1969年12月26日)、モンブランはフランスへ帰国するため横浜から出帆しました。その際、薩摩人の前田正名が同行しました。前田正名は、薩摩辞書と呼ばれる『和訳英辞書』を兄の前田献吉、高橋新吉とともに編纂した人物です。薩摩辞書の底本は、文久2年(1862年)に刊行された『英和対訳袖珍辞書』で、これを編纂したのは堀達之助です。堀達之助は、通訳として五代とともに渡欧した堀孝之の父です。

薩摩辞書之碑
薩摩辞書之碑 Monument of Satsuma Dictionary

薩摩辞書は明治2年正月に刊行されました。五代も出版や売り捌きに協力しています。この辞書の売り上げで、前田献吉と高橋新吉はアメリカへ、前田正名はフランスへ留学しました。

和訳英辞書
和訳英辞書 Japanese-English Dictionary

五代がヨーロッパでモンブランと交わした商社契約書の中に「修船機関」の輸入がありました。日本に「蒸気船35〜36艘ありといえども、一ヶ所の修船場なき故」として、五代は修船場の建設が急務であると考え、長崎に小菅修船場を造りこれを実現させます。モンブランも関与しましたが、資金の多くは英商人トーマス・グラバー(Thomas Glover)が拠出したようです。モンブランは結局商人ではなかったため、商社契約の内容を忠実に履行できず、このことも薩摩藩がモンブランを遠ざける一因となったようです。

小菅修船場
小菅修船場 Kosuge Repair Dock
小菅修船場跡碑
小菅修船場跡碑 Monument of Kosuge Repair Dock

<住所>
第八代濱崎太平次像:指宿市湊3丁目(指宿港)
濱崎太平次の屋敷跡:指宿市湊2丁目19(NTT西日本)
鶴丸城(鹿児島城)跡:鹿児島市城山町
薩摩辞書之碑:鹿児島市城山町7-1(鹿児島県立図書館)
小菅修船場跡:長崎市小菅町5

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