五代友厚 モンブランの帰国(1)

レオン・ロッシュ
レオン・ロッシュ Léon Roches

維新後、五代友厚が新政府の外国事務局判事として大阪で勤務するようになると、来日以来五代とほぼ行動をともにしていた仏人シャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)も大阪に居を定める。仏艦デュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)によれば、モンブランは初め「港のすぐ近くにある旅籠のような家に住んでいた」が、しばらくすると「今は政府の大きな屋敷に居を定めている」とあり、薩摩藩もしくは新政府がモンブランに家を用意したようだ。

五代が慶応4年4月(1868年)より鹿児島へ一時帰藩することになったが、この間モンブランは大阪に残り、仏公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)やプティ=トゥアール、また英公使館の書記官アルジャーノン・ミットフォード(Algernon Mitford)らと頻繁に交流を重ねた。ロッシュは、当初幕府に肩入れしモンブランを敵対視していたが、維新後は方針を変えて新政府に近いモンブランと協力体制を取ることにしたらしい。モンブランは、薩摩藩のみならず自国の外交筋とも良好な関係を築いたことに大いに満足していた。しかし、6月に駐日公使がロッシュからマキシム・ウートレー(Maxime Outrey)に変わると、再び仏公使団はモンブランと距離を置くようになる。1868年11月18日(明治元年10月5日)に母親へ宛てた手紙には、モンブランが「少し心寂しい思いをしていたことも読み取れる」とのことである。

モンブランは明治元年10月1日(1868年11月14日)に、在阪のフランス副領事レック(Leques)を通じて五代に大阪・神戸間電信架設の願書を提出した。五代が滞欧中モンブランと交わした商社設立の契約書に大阪・京都間の「テレガラフ」に言及した箇所があり、それを請願の根拠の一つとしたようだ。『五代友厚秘史』によれば、早春2月に堺へ遠乗りに出かけた五代が偶然レックとモンブランに遭遇し回答を迫られたが、電信はすでに日本政府の手で架設することに決まり機械もイギリスに発注していたため、モンブランには「大阪府で購入する汽船も工場機械などの斡旋を頼むことにし納得させた」とある。

一方、モンブランには、明治元年12月に外国官より仏国博覧会御用につきフランスに派遣する旨の辞令が出ていた。博覧会御用というのは、パリ万博で売れ残った日本出品物の払い下げ業務で、もともと幕府の在仏総領事であったポール・フルリ・エラール(Paul Fleury-Hérard)に託されていたものだが、維新後フルリ・エラールが総領事を解任されモンブランがその職にあったことから、この業務もモンブランが引き継ぐことになったのである。しかし、このときも帰国することなく出発を先延ばしにする。

1869年4月19日付のNerva Marchand et Compagnie社からモンブランの母親宛ての書状によると、モンブランは2ヶ月半前から「一字も紙に記すことができなかった程の重病であった」という。しかし、病名は書かれておらず、モンブラン自身が病気について手紙に記したこともなかったようだ。モンブランは電信架設を却下する旨正式な回答を5ヶ月後に受け取り、ようやくフランスへ帰国する決心をしたらしい。ただし、実際に出国するまでさらに1年近くを要した。

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
ヴァンデワラ ウィリー『旅と政変 : 幕末明治初期を旅行したモンブラン伯 (白山伯)』「日文研叢書43巻」2009年
五代友厚七十五周年追悼記念刊行会『五代友厚秘史』1960年
宮永孝『ベルギー貴族モンブラン伯と日本人』「社会志林47巻2号」2000年

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