五代友厚 モンブランと日本(2)

『日本』シャルル・ド・モンブラン
『日本』シャルル・ド・モンブラン “Le Japon en 1866” Charles de Montblanc

慶応3年12月28日(1868年1月22日)、五代友厚は、新納久脩(刑部)、モンブラン(Charles de Montblanc)と共に兵庫湊に入った。薩摩藩の定宿である小豆屋に滞在していたが、年が明けて慶応4年1月3日、兵庫沖で幕艦が薩船に大砲を放ち、鳥羽・伏見で幕軍と薩長軍が戦闘状態になると、五代はモンブランを英公使ラウダ(John Frederic Lowder)に託し、自身は開聞丸に戻る。

1月11日に神戸事件が起こると、五代は新政府の徴士参与兼外国事務掛を仰せ付けられ、その後も堺事件京都でのパークス襲撃と攘夷事件の対応に追われた。その間モンブランは、外交政策のアドバイザー的役割を果たしていたらしい。2月末に京都御所で行われた英仏蘭公使の天皇謁見で、薩摩藩はフランス公使一行の警護と接待を担当したが、仏軍人の記録によると、一行を相国寺で出迎えたのは仏人モンブランであったという。相国寺は御所の北側に位置し、薩摩藩はその西隣りに二本松藩邸を構えていた。

神戸事件が滝善三郎の切腹により一応の解決をみた2月9日(1868年3月2日)の翌日、新政府はモンブランを駐仏総領事に任命している。外国事務総督伊達宗城の名で出されているが、薩摩藩の意向を汲んだものだろう。功労に報いる一方、それ相応の地位と引き換えに日本からの出国を暗に求めたとも言える。1867年12月2日(慶応3年11月7日)にモンブランが母親に宛てた手紙には、鉄砲と大砲の代金として1900万フランが送金される見込みであると書かれていたというから、国事多端、財政逼迫の折、薩摩藩にとっては何かと負担の大きい相手であった。

五代とともに渡欧した新納が3月15日に五代に宛てた手紙には「モンブランも願意達せし由、互に此上なく日本の大幸か、モンブラン如何の模様か」とある。新納はヨーロッパから戻るとすぐ、まだ11歳だった息子の竹之助をフランスへ留学させている。これはモンブランを頼り、モンブランに信頼を寄せてのことである。モンブランの駐仏総領事任命はモンブランと日本双方に好都合と思われたが、モンブランはなかなか日本を去ろうとしなかった。五代は4月1日より母親の病篤しということで休暇をとり、約1ヶ月間鹿児島に帰っていたが、この間もモンブランは大阪に残り、フランスやイギリスの公使たちと活発に交際していた。

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
ヴァンデワラ ウィリー『旅と政変 : 幕末明治初期を旅行したモンブラン伯 (白山伯)』「日文研叢書43巻」2009年
宮永孝『ベルギー貴族モンブラン伯と日本人』「社会志林47巻2号」2000年
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年

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