五代友厚 モンブランと日本(1)

シャルル・ド・モンブラン
シャルル・ド・モンブラン Charles de Montblanc

五代友厚は、慶応元年(1865年)の滞欧中、ベルギーとの商社設立や1867年パリ万博への出展計画を練り上げたが、それらに深く関わったのがベルギー/フランス貴族のシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)である。モンブランは1833年生まれで五代より3歳年上、パリに生まれ、フランスで育った。若い頃から日本への関心が高く、最初の訪日は安政5年(1858年)で、ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵(Jean-Baptiste Louis Gros)の外交使節団の一員であった。グロ男爵はこのとき日仏修好通商条約を締結した。モンブラン自身の任務はフィリピンにおける学術調査であったとされる。1862年にも一旅行者として来日し、横浜の居留地や江戸の仏公使館に滞在していたという。

モンブランと五代が出会ったのは、慶応元年(1865年)の夏で、五代、新納久脩(刑部)、通訳の堀孝之が視察旅行のためイギリスからヨーロッパ大陸へ渡った直後のことである。五代らはベルギーでモンブラン家が所有するインゲルムンステル城(Ingelmunster Castle)に招かれ、その後も度々会ってはカンパニーの設立や万国博覧会への参加について話し合いを重ねた。富国強兵を国家の須要と考えた五代らに、モンブランの申し出は渡りに船であったに違いない。モンブランは、先に幕吏池田筑後守や柴田日向守とも接触を試みていたが冷たくあしらわれ、五代らに近づいたのは彼らを見返す魂胆もあったのだろう。この頃すでに幕府側にフランス、薩摩側とにイギリスいう構図ができ上がりつつあったが、モンブランは独自に行動したものらしい。

慶応2年春、日本に帰国した五代は長崎在勤となりパリ万博出品物の準備に奔走する。岩下方平を団長とする薩摩藩の使節団は慶応3年初めにパリ入りし、モンブランは薩摩藩一行の世話役として大奮闘した。パリ万博における薩摩藩と幕府の確執についてここでは触れないが、モンブランが薩摩のため東奔西走し、幕府に一泡吹かせたのは確かである。その甲斐あってかモンブランは、陸軍士官2名、海軍士官2名、鉱山技師2名、商人2名、従者1名、計9名を引き連れ、岩下ら使節団の帰国に同行して来日することになった。五代は上海まで彼らを迎えに行ったが、これはつまり、親英政策をとりつつある薩摩藩にとって招かれざる客となったモンブランの見張りという意味合いである。外国人らはしばらく長崎に滞在していたが、薩摩藩は長崎奉行の反対を押し切って彼らを鹿児島へ連れて出した。しかし、城下に置くわけにはいかず、五代はモンブランを伴って指宿の濱崎太平次邸に逗留するなどしていたらしい。やがて倒幕の動きが活発になると、五代は船で九州と京阪神を往復していたとみられ、モンブランもやがて京へ行くことになる。

<参考文献>
宮永孝 『ベルギー貴族モンブラン伯と日本人』「社会志林47巻2号」 2000年
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年

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