五代友厚 五代秀堯(1)

小天地閣叢書「五代直左衛門惟宗秀尭」
小天地閣叢書「五代直左衛門惟宗秀尭」 Shoutenchikaku-sousho, Godai Hidetaka

西村天囚の小天地閣叢書に五代友厚の父、秀堯の履歴が収められていたのでその生涯を追ってみたい。元治元年 今藤惟宏題とあるから、没して約10年後に出されたものである。今藤惟宏(新左衛門)は、造士館でも教えていた薩摩藩の儒官で、秀堯や五代の兄徳夫(競太)の同僚にあたる。履歴自体は長男の徳夫がまとめたものであろう。

五代直左衛門惟宗秀尭
父休兵衛利起 母四本氏

寛政2年12月4日(1791年1月8日)誕生
寛政10年10月15日吉日五代熊太郎元服(9歳)
寛政11年10月17日休之丞に改名(10歳)
寛政12年9月26日実母四本氏死去(11歳)
文化4年正月29日(1807年3月7日)実父休兵衛利起死去(18歳)

秀堯はわずか11歳で母を、18歳で父を亡くしている。友厚が父秀堯を亡くしたのも、ほぼ同じ数えで19歳のときであった。

文化6年12月25日(1810年1月30日)直左衛門に改名(20歳)
文化12年7月中小姓にて江戸詰被仰付(26歳)
文政2年閏4月(1819年5月)まで江戸詰 都合5年

秀堯が20歳となり直左衛門に改名した文化6年は、島津斉興が襲封して第10代藩主となり、また島津斉彬が生まれた年である。秀堯は26歳から30歳までの5年間を江戸で過ごした。

文政2年4月御小姓江戸詰より伏見御仮屋守被仰付(30歳)
文政7年12月12日先妻隈元氏歿去(35歳)
文政8年まで伏見御仮屋守 都合7年

江戸詰から伏見の御仮屋守となり同所に7年勤めた。江戸から伏見に移る前の数ヶ月と文政5年の一時期は薩摩に戻っていたようだ。伏見にいる間に最初の妻を亡くしている。

文政8年7月29日御記録方添役被仰付御役(36歳)
文政8年7月晦日御記録方添役御役に付一代新番被仰付
文政9年名勝志再撰方総裁被仰付(37歳)
文政10年御用之儀有之硫黄岳并に竹岳黒島に渡海(38歳)
文政10年12月19日御記録奉行御役に付一代小番

36歳のときに伏見から薩摩へ戻り、御記録方添役となった。翌年『三国名勝図会』の再編纂を命じられ総裁を仰せつかった。文政10年(1827年)に硫黄島、竹島、黒島へ出張している。同年末に御記録奉行に昇進し一代小番となる。

天保十某年大信院様御碑文并碑陰記且御石碑
天保13年5月19日御使番格被仰付(53歳)
天保14年薩藩名勝志成就(54歳)

三国名勝図会の編纂に邁進するとともに、天保4年に逝去した島津重豪公の碑文や石碑にも取り掛かり、この完成には8年を要した。37歳で始めた三国名勝図会の編纂は、54歳でようやく成就した。友厚は天保6年生まれであるから、秀堯46歳の時の子である。

天保14年12月25日當御役にて助教勤被仰付
嘉永6年5月6日(1853年6月12日)御使番格助教勤中に死去(64歳)
法名 義聖院諦山智順居士
墓所 浄土宗不断光院候得共余地無之近境真言宗宝珠院に葬
号五峰山人又号雞口堂

三国名勝図会完成後は御使番格助教を11年間勤め、64歳で死去。
江戸や京都伏見に長く勤め、世界地図に魅かれた秀堯の開明的な面は友厚(才助)が引き継ぎ、三国名勝図会の編纂に携わるなど真摯に学問に取り組む姿は、同じ学者の道を歩んだ友厚の兄徳夫(競太)が引き継いだと言えよう。

<参考文献>
西村天囚輯『小天地閣叢書 乾集』「五代直左衛門惟宗秀尭」書写年不明

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