五代友厚 天和銅山と五條(2)

五條
五條(大和名所図会)

五代友厚が経営する弘成館は、五條に出張所を置いて、天和銅山を中心とする奈良の各鉱山運営のための拠点としていた。

それより前、幕末期における五條は、天誅組と関わりの深い地として知られる。尊王攘夷急進派である天誅組の志士たちが、幕府直轄地である五條の代官所を襲い、櫻井寺を本陣として五條新政府を号したのが文久3年8月17日(1863年9月29日)であった。天誅組にとっては天皇の大和行幸を控えての義挙であったが、翌日の朝議、いわゆる八月十八日の政変により行幸は中止となり、天誅組は挙兵の大義名分を失った。追われる身となった天誅組は吉野の山中を転戦するもひと月余りで壊滅。この年の7月には薩英戦争があって、五代は捕虜となり解放されてなお数ヶ月間武蔵国の下奈良村に身を潜めていた。五代の後妻豊子の兄である森山茂や、五代と親しく維新後は司法官となって大阪控訴院院長などを歴任した北畠治房(平岡鳩平)らも天誅組に加わっていた。

五條出張所に関しては、五代の側近堀孝之の書簡に「和州鉱山諸職人用の酒、五条借宅旧造酒家にて波江野造酒のつもり」と書かれたものがある。波江野とは薩摩の波江野休右衛門のことで、堀と並ぶ弘成館の幹部であった。五條は江戸時代より吉野川の伏流水による酒造が盛んで、10軒以上の造酒家が建ち並ぶ時代もあったようだ。酒を自家製造しようというぐらいだから、鉱山で消費される酒量はかなりのものであったのだろう。また、波江野が五代に宛てた別の書簡には「ウヲトルス天和山近々鉄道取掛り地量等致し度」とある。ウヲトルスはアイルランド人の建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas Waters)のことで、造幣局の泉布観を設計したことで知られる。薩摩藩に雇われて奄美大島の白糖工場を建てたり、鹿児島紡績所関連の設計にもおそらく関わっていただろうから、五代はウォートルスと既知であったに違いない。天和山の鉄道建設は、結局実現しなかったようだ。

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年
五條市史調査委員会『五條市史』1958年

  いいね Like