五代友厚 天和銅山と五條(1)

天川坑と五條
天川坑と五條(大和地圖)

五代友厚が明治4年(1871年)に開坑した天和銅山は、吉野郡天川郷の山深い地にあって、険峻な山道を越えての往来は容易ではなかった。五代の経営する弘成館は天和山出張所に加え五條にも出張所を設け、奈良における鉱山事務全般、物資の調達、大阪との連絡をここから執り行った。

五條は吉野山地への入口として重視されていたのみならず、吉野川の水運にも恵まれ、また紀州、伊勢、河内へ通じる街道が交わる交通の要衝として栄えた。東の五條と西の二見城をつなぐ紀州街道、いわゆる新町には商家が建ち並び、現在も江戸時代からの家屋が多く残っている。新町は、関ヶ原の戦いの功績によって二見城に入った松倉豊後守重政が町割を施行し諸役を免除するなどして発展の基礎を築いたもので、五條はその後天領となって南大和の中心地となった。

天和山の鉱山経営に必要な物資が五條から運び込まれるとともに、天和山で採鉱された銅は馬に積まれ、和田の下流の西ノ谷から武士ヶ峯へ登り、矢八ヅ峠から西吉野に下って五條へと運ばれた。最盛期にはこの難路を毎日50〜60頭もの馬が行き来したという。

1862年に来日した英公館通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)は、吉野の洞川から高野山に至る道を歩いた際のことを次のように書いている。

中越を川合へと下降(中略)中谷で登山者の利用するルートは川を越えて、今では廃屋に等しい観音の寺に向かい、その後またすぐに右岸に戻る。和田で山道が分岐して川を越え、いくつかの銅山に向かう。それらは、一八六二年に開坑され、一八七二年における金属の産出量は一六五トンを超えた。

廃屋に等しい観音の寺とは、廃仏毀釈後の天河神社のことであろうか。サトウの目的地は高野山であったから、西ノ谷は通過し、山西、広瀬、滝尾、塩野、天ノ川辻、坂本、中原と西へ向かって歩いている。天ノ川辻の手前の松尾峠と中原のすぐ先の山道にも五條へ向かう分岐があったという。サトウは、山西から半マイル先の「川の深い湾曲部の上に美しくたたずむ辰見左衛門経営の小さな旅宿」で昼の休憩をしたようだ。天ノ川の不動滝のあたりであろうか。

<参考文献>
アーネスト・メイスン・サトウ『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』2017年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年

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