五代友厚 天和銅山(2)

大和国鉱山表
大和国鉱山表(明治11〜12年頃)

五代友厚は、明治2年(1869年)に金銀分析所を開設すると、日本の古金銀貨幣を買い入れ、分析し、地金を造幣局に納入した。結果的に明治政府による新貨幣制度への移行を助けたといえよう。続いて明治4年、五代は天和銅山を開坑して鉱山業に進出した。

五代が鉱山業に進出したきっかけのひとつは、海外の鉱山や造幣局、金銀の分析技術を見てきたことにある。慶応元年(1865年)に薩摩藩英国留学生を率いて渡欧した五代は、英国オルダリー・エッジ(Alderley Edge)の銅山を訪れ、洋式の採掘や精錬方法を目の当たりにした。また、ベルギーのリエージュ(Liege)では、政府貨幣に用いるニッケルの精錬加工を見学し、ブリュッセル(Brussels)の貨幣機関所では、日本の判金及び弐歩金、壱歩銀を分離して金銀を秤量する様を観察した。

五代が慶応元年12月22日(1866年2月7日)にシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と交わした契約書には、以下のような事項が含まれている。

一、鉄製局 一、金山 一、銅山 一、錫山 一、石灰山 一、鉛山
右六ヶ条商社盟誓の上、土質学の達人を相雇ひ、国中普く点検して、其の場所に応じ至当の業を可相開候

五代が求めた「土質学の達人」たちは、1867年パリ万博に参加した薩摩藩使節らととも日本へやって来た。天和山を調査したことのある仏人鉱山技師のジャン=フランソワ・コワニェ(Jean-François Coignet)もその一人で、彼はまず薩摩藩に召抱えられ、次いで明治政府鉱山寮の御雇外国人となって生野銀山などの近代化に努めた。

天和銅山は、山の東西2ヶ所に主な坑口があり、海面2350尺(約715m)に本坑、2800尺(約850m)に盛和坑があって、和田村人家から8町(約873m)東南の渓川沿い、海面2100尺(約635m)の所に役所及び職工役夫の居宅数十棟が並んでいたという。坑夫使役には固定給の本番制と出来高給の請負制があるが、天和山は請負であった。焼鉱炉は石垣を築いた円筒形のものとレンガで築造した長方形のものの両種があり、熔解法は日本古来の山下吹と皮鞴吹を併用していた。明治8年頃、坑内に板鉄軌道を敷設し、鉱石は鉱車に積んで運び出していた。また、坑舗課が厳重に監督して乱掘を防いでいたという。

天和銅山の運営は、やや進歩的ではあるものの、急速に近代化を進めた生野銀山など官営鉱山に比べると旧来の名残を払拭しきれていなかった。しかし、非常に優良な鉱山であったことは確かで、五代の設立した弘成館は、玉石混淆の鉱山経営の中、天和銅山に支えられていたといっても過言ではない。

<参考資料>
齋藤精一『大和天和銅山ノ概況』「日本鉱業会誌 2(16)」1886年6月
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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