五代友厚 天和銅山(1)

天ノ河
天ノ河(大和名所圖絵) Ten’nokawa River

実業家としての五代友厚が、最も力を注いだ事業のひとつが鉱山経営である。五代は明治2年(1869年)に官を辞すと大阪の今宮村に金銀分析所を開設し、各地から買い入れた古金銀貨幣をを溶解、分析し、地金を造幣寮に納めることで莫大な利益を得た。それを元手に鉱山開発へ進出したのである。

五代が初めて入手した鉱山は大和国吉野郡天川郷和田村の天和銅山であった。慶応4年(1868年)に鉱石が紫園銅山役所へ持ち込まれ、辛苦探鉱の末鉱脈が発見されたという。和田村へ95両、山林立木代金75両、発見者へ50両の計220両を支払うことで、鉱山司の役人神山雪江と森清之助が請負稼となった。銅山役所のあった紫園は天和山の南西10km余りのところにあって、江戸時代半ばより銅山の開発がなされていた幕府の天領であった。

翌年から鉱山開発の代償として和田村、栃尾村、九尾村の三ヶ村には月々100両ずつ支払われることにもなっていたが、経営に困難がともなったのか、明治4年10月に天和・紫園両鉱山を金壱万両で譲渡する旨神山・森両人から五代の代理人中井新八へ伝えられ、五代の経営へ移る。中井新八は大阪鰻谷の船橋屋という紀ノ庄(紀伊国屋九里庄三郎)出入りの骨董屋であったらしい。五代は金銀分析所設立の際にその別荘を借りるなど、紀ノ庄と懇意にしていた。

五代の鉱山購入に先立ち、明治3年7月、仏人鉱山技師のジャン=フランソワ・コワニェ(Jean-François Coignet)が、鉱山司の命をうけ大和国吉野郡の紫園山、高原山、初尾山、天和山、北山の各鉱山を調査している。コワニェは、天和銅山を「此処の鉱石は、鉱脈にしても、其他の諸性質にしても、別子銅山の鉱石と甚だ類似しているから、採掘して見ると、別子銅山と略々同程度の好成績をもたらすのではないかと考えられる」と記している。また、明治3年11月には、五代と土肥真一郎(土居通夫)がボードウィン(Albertus Johannes Bauduin)から借りていた金子を紫園及び天和銅山の荒銅で返済する旨、神山と中井の間で証書を交わしている。

おそらく五代は自らも天和山に赴き、この鉱山の将来性を見極めた上で購入したのだろう。その後、天和山東隣りの栃尾山、さらに東の北山郷赤倉山も五代が開坑するところとなり、紫園の南にある立里鉱山をも買おうとする動きがあったと言われる。天和山は、はじめの頃は年間3万円の純益があり、多い時には4ヶ月で7万4000円もあった。明治15年頃より低落の兆候が見られたが、五代が逝去するまで一貫して安定した利益を上げた鉱山であった。

<参考資料>
齋藤精一『大和天和銅山ノ概況』「日本鉱業会誌 2(16)」1886年6月
竹中久二雄編『山村社会経済誌叢書7 中国・近畿編3(奈良・吉野)』1973年
フランシスク・コワニェ著 石川準吉編訳『日本鉱物資源に関する覚書』1944年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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