五代友厚の妻、豊子の出身地である奈良県田原本町を歩きました。奈良盆地の中央に位置するたいへん歴史のある町です。
近鉄橿原線の田原本駅です。西隣りには近鉄田原本線の西田原本駅もあります。
駅の東側には、浄照寺と本誓寺という二つの大きなお寺が並び建っています。
元はここに教行寺というお寺がありました。教行寺を佐味田村から招いて寺内町をつくらせたのは、賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる平野長泰だそうです。家督を継いだ長勝が、教行寺を元の場所に近い箸尾に退かせ、代わりに建てたのが浄照寺と本誓寺でした。
慶安4年(1651年)に建てられた浄照寺の本堂です。五代豊子も訪れたことがあったかもしれません。
明治10年の関西行幸で、明治天皇は2月10日に畝傍山陵を参拝、浄照寺で休憩をとりご昼食を召し上がったそうです。奈良から堺を経て大阪に移動し、2月16日には五代友厚の製藍所朝陽館に臨幸されました。
浄照寺の太鼓楼です。中に太鼓が設置されていて、時を告げたり、緊急事態を知らせるために使われました。
太鼓楼前から延びる道をまっすぐ東へ進みます。
この通りは、江戸時代からの古い家屋が建ち並び、たいそう趣があります。特に古いのがこの旧村田家で、1660年代に町衆の集会場として建てられたといいます。シートで覆われ崩れ落ちそうになっている部分もありますが、後世まで残ってほしいりっぱな建物です。
江戸時代から残る家並みの立面図を描いた説明板がありました。
古い道標も残っています。瀧田、法隆寺、大坂とあります。田原本町は、法隆寺と飛鳥のちょうど中間あたりに位置しています。田原本を基点にそれぞれ10キロ程度の距離です。近鉄橿原線の西に南北を斜めに通る太子道と呼ばれる道がありますが、これは聖徳太子が法隆寺のある斑鳩と飛鳥を行き来するために使った道と言われているそうです。瀧田には、賤ヶ岳の七本槍のもう一人、片桐且元が築城した城がありました。
鍵岡薬局です。天保12年(1841年)ごろの建築だそうです。五代豊子さんが生まれたときにはすでにここにあったことになります。
斜向かいは味噌屋さんです。創業250年とありますから、豊子さんが生まれたときにはすでに創業100年の老舗だったことになります。
田原本を南北に流れる寺川です。寺川は大和川に合流し、大和川は大阪まで続いていますから、江戸時代には大阪とのあいだで川舟を使った行き来が盛んで、田原本は商業が栄える街でした。ここより少し北に今里の浜という川港があり、船問屋が建ち並んでたいへん賑やかだったといいます。
奈良には太神宮と刻された江戸時代の灯籠が数多く残っています。太神宮、すなわち伊勢神宮へ通じる街道沿いに建てられた灯籠で、道標や常夜灯の役目を果たしました。
江戸時代初めにつくられた水路も残っています。
薬局と味噌屋さんのある辻から町役場へ向かって北へ歩いていくと、木造瓦葺きながらどこか洋風の風情のある建物がありました。十字架が見えます。
これは日本聖公会の田原本聖救主教会で、現在の礼拝堂は昭和8年(1933年)に建てられたものだそうです。布教自体は、明治16年(1883年)には始まっていたということです。
さらに北へ歩き、鏡作神社に立ち寄ります。その名の通り、三種の神器の一つである鏡と鏡作りに関わりの深い神社で、もともと鏡類の製作鋳造を生業にしていた人たちが多く居住していた場所だということです。
豊子は式下郡八尾村常盤町の出身ですが、鏡作神社のあたりから北が八尾です。下ツ道と呼ばれた古道、近世以降は中街道と呼ばれる道をさらに北へ歩きます。
ここにも古い家屋が残っています。江戸時代には街道沿いにこうした家が連なっていたのでしょう。
八尾について書かれた案内板がありました。鏡作神社、安養寺、笹鉾山古墳、そして八尾村出身の著名人として森山茂が挙がっています。
森山茂は五代豊子の兄で、五代友厚にとっては義兄に当たります。五代と豊子の書簡にもよく名前が出てきます。
中街道を突き当たったところにあるのが安養寺です。
森山茂が文久3年(1863年)の天誅組の変に加わって幕吏に追われていたことで、豊子ら兄弟もこの安養寺の床下に匿われていた時期があったそうです。文久3年といえば、豊子が12歳のときです。森山や豊子の実家である萱野家の先祖代々の墓もここにあるということです。
安養寺の創建は寛永10年(1633年)、本尊は安土桃山時代の阿弥陀如来坐像で、さらに快慶作の阿弥陀如来立像も祀られているとありました。
<住所>
浄照寺:磯城郡田原本町茶町584
旧村田家:磯城郡田原本町材木町661-3
鍵岡薬局:磯城郡田原本町材木町515
嶋田味噌:磯城郡田原本町味間町505
田原本聖救主教会:磯城郡田原本町八幡町752
鏡作神社:磯城郡田原本町八尾816
安養寺:磯城郡田原本町八尾40