五代友厚 宇和島人脈(足跡篇)

宇和島藩の人物にゆかりの場所を訪ねました。

宇和島城の南東にある宇和島税務署からスタートします。
税務署の脇にある大きな石碑は児島惟謙の生誕地を記念したものです。児島惟謙は天保8年(1837年)生まれで、少年時代は多都味嘉門の道場に通い、同い年の土居通夫とともに剣術修業に励んだといいます。

児島惟謙の生誕地
児島惟謙の生誕地 Birthplace of Kojima Iken

元治元年(1864年)に出郷して高知や長崎に遊学し、五代友厚や坂本龍馬とも交友を持ったようです。幕末には尊王倒幕運動にも加わっていました。

児島惟謙の生誕地説明板
児島惟謙の生誕地説明板 Explanation Board of Kojima Iken’s Birthplace

宇和島税務署からしばらく西へ歩くと、市立宇和島病院が見えてきます。

松根邸跡
松根邸跡 Old Site of Matsune’s Residence

大きな敷地の一角に松根家邸跡の記念碑がありました。藩の家老松根図書の邸宅跡です。さぞかし大きな屋敷だったのでしょう。このあたりの住所は御殿町といって、すぐ西側には伊達家の御殿がありました。
英公使館通訳アーネスト・サトウ(Earnest Satow)は、宇和島を訪れたときのことを次のように書いてます。
城外にある御殿、すなわち藩主の御屋敷へおもむいた。(中略)二人の殿様と、婦人たちを相手に酒をしこたま飲んだあとで、私は松根老人に彼の私宅へ運ばれ-いや案内された。そこでも、また酒が出て、松根一家の人々とも近づきになった。
藩主の御屋敷と松根邸は目と鼻の先ですから、「運ばれ」てもおかしくはありません。結局、この日サトウは松根邸に泊まり、息子の松根内蔵らと同じ部屋で寝たようです。
元治元年(1864年)末に宇和島を訪れた五代友厚も、松根図書宛ての礼状に「御家内様迠も無御心置、御懇命を受候段、難有仕合」と書いているので、おそらく松根図書の自邸に招かれたのではないでしょうか。

松根邸跡記念碑
松根邸跡記念碑 Monument to the Site of Matsune’s Residence

市立宇和島病院の北側に城山の登城口がありますが、上り立ち門のすぐ脇に建っているのは児島惟謙の銅像です。

児島惟謙銅像
児島惟謙銅像 Statue of Kojima Iken

顕彰碑には「後に貴族院、衆議院議員、第二十銀行頭取となり・・・」とあります。第二十銀行というのは、宇和島伊達侯爵家が出資して創設、渋沢栄一が依託されて経営の指導に当たっていた銀行です。本店は東京で、北海道にも支店がありました。

児島惟謙顕彰碑
児島惟謙顕彰碑 Monument in Honour of Kojima Iken

上り立ち門から城山に沿って少し西に進むと南豫護國神社の鳥居が見えます。

南豫護國神社
南豫護國神社 Nanyo-gokoku Shrine

初代藩主伊達秀宗と5代村候、7代宗紀、8代宗城を御祭神とする神社で、大正2年(1913年)に創建されました。

南豫護國神社本殿
南豫護國神社本殿 Nanyo-gokoku Main Shrine

本殿の前に鎮座している狛犬は、実業家渋沢栄一が寄進したものということです。

南豫護國神社の狛犬
南豫護國神社の狛犬 A Komainu Dog at the Nanyo-gokoku Shrine

台座に「大正三年四月十五日 男爵 澁澤榮一」と刻まれていました。石匠は、大阪天満橋南詰の川島三平とあります。伊達宗城が民部卿兼大蔵卿だった明治2年(1869年)に、渋沢栄一は民部大蔵省へ出仕し、宇和島藩とつながりができました。渋沢の長女歌子は、宇和島藩家臣穂積重樹の次男で法学者の穂積陳重と結婚しています。当時穂積重樹の長男重頴は第二十銀行(後に第一銀行と合併)の頭取、取締役は西園寺公成(雪江)でしたが、西園寺が縁談の話を持って渋沢家を訪ねたといいます。穂積陳重は留学先のドイツから帰国したばかりで、東京大学法学部の講師に就任していました。仲人は児島惟謙が務めたそうです。

狛犬の台座
狛犬の台座 Pedestal of the Komainu Dog

宇和島城からまっすぐ南へ進み神田川を渡った先に土居通夫生誕の地があります。宇和島藩士大塚南平祐紀の六男として、ここ元結掛に生まれました。説明板には「文久元年、坂本龍馬が来宇すると、田宮流多都味道場の剣客である通夫は児島とともに龍馬と剣の試合をした。龍馬の憂国慨世に感ずるところがあり、国抜けして尊王倒幕の志士となり、薩摩藩士らと奔走した。」とあります。

土居通夫生誕地
土居通夫生誕地 Birthplace of Doi Michio

土居通夫生誕地の近くには、大村益次郎住居跡もあります。大村益次郎は周防の出身、大阪の適塾で蘭学を学び、伊達宗城の招きで宇和島に来ました。村田蔵六を名乗り、蘭学の教授、翻訳、藩の軍制を研究していましたが、宗城に伴って江戸に行ったため、ここに住んでいたのは2年半ほどということです。

大村益次郎住居跡
大村益次郎住居跡 Old Site of Omura Masujiro’s Residence
大村益次郎住居跡説明板
大村益次郎住居跡説明板 Explanation Board of Omura Masujiro’s Residence

最後に和霊神社を訪ねました。和霊神社は町の北側にある、四国でも指折りの大社です。途中、丸之内和霊神社と呼ばれる小さな和霊神社にも立ち寄りました。

丸之内和霊神社
丸之内和霊神社 Marunouchi Warei Shrine

ここには伊達家家臣の山家清兵衛公頼の邸宅がありました。藩祖秀宗に仕え産業の拡充と民政の安定に尽力し、領民からも敬慕されていたといいます。しかし、財政立て直しに関し藩内の意見が対立し、秀宗の意を受けた武士たちにより、山家清兵衛と3人の息子はここで殺害されたということです。

山家公頼の邸宅跡
山家公頼の邸宅跡 Old Site of Yanbe Kinyori’s Residence

宇和島駅の北、和霊町にある和霊神社の鳥居です。巨大です。こちらの和霊神社は、山家清兵衛の霊を慰めるために建てられ、享保20年(1835年)に遷宮されました。

和霊神社
和霊神社 Warei Shrine

社殿は空襲で一度焼失しましたが、再建されています。

和霊神社本殿
和霊神社本殿 Warei Main Shrine

和霊神社の一角に「坂本龍馬脱藩百四十年記念」「坂本家守護神 和霊神社 分霊社創建二百四十年記念」と書かれた記念碑がありました。
坂本家の守り神は、高知市神田にある和霊神社で、龍馬は脱藩前にここに立ち寄り、脱藩の報告をしたと言われています。神田の和霊神社は、龍馬の先祖が宇和島から勧請し建立したものだそうです。

坂本竜馬記念碑
坂本竜馬記念碑 Monument to Sakamoto Ryoma

<住所>
児島惟謙の生誕地:宇和島市堀端町1-38(宇和島税務署横)
松根邸跡:宇和島市御殿町1-1(市立宇和島病院敷地内)
児島惟謙銅像:宇和島市丸之内3-6(宇和島城上り立ち門横)
南豫護國神社:宇和島市丸之内1-3
土居通夫生誕地:宇和島市元結掛1-4-3
大村益次郎住居跡:宇和島市神田川原110
丸之内和霊神社:宇和島市丸之内1-4-3
和霊神社:宇和島市和霊町1451

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五代友厚 宇和島人脈(2)

西園寺公成
西園寺公成(『宇和島吉田両藩誌』より)

五代友厚の書簡に残っている宇和島人の多くは、明治初年に外国事務局に勤めていた人で、外国事務総督が宇和島の前藩主伊達宗城であったから、必然外国事務局には宇和島人の登用が多かった。

西園寺公成(雪江)は、宇和島藩の小姓頭・目付役で、維新後は大阪府権判事兼外国官権判事として五代とともに大阪運上所や居留地を取り仕切っていた。慶応4年2月(1868年3月)の堺事件でも、ともに大阪と堺を幾度も往復して事の収拾に当たった。仕事上の書簡が多いが、官を退いた西園寺の再就職先を心配したり、「最早40に近いのだから、過度は慎むように」と西園寺から五代へ書き送った明治7年の書簡もある。互いに天保6年生まれであった。西園寺はやがて、渋沢栄一が中心となって設立した東京第一銀行や東京瓦斯会社、東京石川島造船所などで取締役や監査役をつとめるようになった。

土居通夫(土肥真一郎)は、宇和島の児島惟謙と同じ道場で剣術に励むも、20代後半に脱藩し、大阪の高池屋三郎兵衛の所で住み込みで働いたり、京都で中井弘らと倒幕運動に参加するなどしていた。明治になって帰藩を許され、大阪運上所に勤務した。明治5年からは司法省に出仕していたが、明治17年に退官し大阪鴻池家の顧問に就任した。顧問就任には五代の推挙があったとも言われる。明治18年に五代が逝去すると、中之島の五代邸は土居の所有となった。また、土居は五代の三女芳子を養女とし、芳子の婿として伊達宗徳の五男剛吉郎を迎えた。明治28年から第7代商業会議所会頭となり終身その地位にあった。土居が司法官の頃より、伊達宗城や宗徳が来阪の折は土居宅に投宿するのが常であった。

志賀頼母、須藤但馬、桜田大助、宇都宮靭負、都築荘蔵、松尾臣善(寅之助)も、みな外国事務局関係者である。松尾臣善は播磨の出身ながら宇和島藩に仕え、維新後は官に仕えた。五代が退官してからもしばらく手紙のやり取りが続き、そこにはたいてい寒天のことが書かれていた。宇和島は特産品として寒天の製造に力を入れていたから、これを売り捌く算段であったものがうまくいかず、金策に苦労していたようだ。松尾は長く大蔵官僚を務め、最後は日本銀行総裁になった。

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
日本銀行ホームページ 第6代総裁:松尾臣善(まつおしげよし)
https://www.boj.or.jp/about/outline/history/pre_gov/sousai06.htm/
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 宇和島人脈(1)

児島惟謙
児島惟謙(『児島惟謙伝』より)

数多く残されている五代友厚の書簡の中で、鹿児島、長崎関係に次いで多いのが宇和島人と交わしたものだろう。書簡の数は西園寺公成(雪江)と土居通夫が突出しているが、他にも次のような名前が見える。

井関斎右衛門(盛艮)
児島惟謙
松根権六(内蔵)
志賀頼母
須藤但馬
桜田大助
宇都宮靭負
都築荘蔵
松尾臣善(寅之助)

井関斎右衛門(盛艮)(いせきさいえもん・もりとめ)は、目付として伊達宗城に仕え、慶応2年(1866年)には長崎にあって、鹿児島・宇和島訪問に先立ち長崎に寄港した英公館通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)と、長州問題について意見を交わすなどしている。このとき五代も長崎在勤であったからすでに接点ができている。慶応4年1月、五代は徴士参与職外国事務掛を仰せ付けられたが、井関も同様に外国事務掛で長崎在勤となり、3月には横浜在勤となって寺島宗則とともに外交に当たった。五代との書簡はこの頃の職務上のやりとりがほとんどである。明治3年、五代は本木昌造に依頼して大阪に活版印刷所を開設し、その資金を提供しているが、井関も本木の協力のもと、同3年末に活版印刷による日本最初の日刊紙「横浜毎日新聞」を発刊している。

児島惟謙(こじまこれたか/いけん)は、明治24年(1891年)、来日していたロシアのニコライ皇太子が警備を担当する警察官に切りつけられたいわゆる大津事件で、大審院長として政府の干渉を退けた判決を下し、司法権独立を確立した人物として知られる。慶応年間に長崎へ遊学し五代とも交友を持ったと言われる。書簡は五代よりも、むしろ五代の娘婿である五代龍作と交わしたものが多く残っている。

松根権六(内蔵)(まつねごんろく・くら)は、幕末には父松根図書とともに長崎に出向き蒸気船の買い付けなどをしていたから、そこで五代とも度々顔を合わせている。権六は伊達宗城の三女敏と結婚し、明治元年に父の図書が隠退すると、明治2年頃いったん東京へ出た。その後、司法官として愛媛に戻り、松山治安裁判所や大洲区裁判所の判事を勤めた。残っている五代との書簡は存外あっさりしたものだが、五代が楽しみで描いた画を送ることなどもあったようだ。

<参考文献>
アーネスト・サトウ著 坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上』1960年
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・吉田旧記 第7輯 松根図書関係文書』1999年
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
外務省調査部第一課編『明治元年外国官関係略歴録』1900年

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