五代友厚 虎列剌(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Cholera (Footprints)

幕末・明治時代に流行したコレラに関連して、大阪市内にある医学校跡や医薬の神様を祀る神社などを訪ねました。

I visited Osaka to see places related to the epidemic during the end of Edo period and Meiji era.

まず、下水施設を見に行きます。
16世紀後半、豊臣秀吉が大阪城を築城する際にその原型が造られたという太閤下水です。大阪メトロ谷町四丁目駅から徒歩5分ほど、大阪市立南大江小学校の西側にあります。

太閤下水見学施設
太閤下水見学施設 Taiko Sewage

大阪では淀川の川水を買って飲むことが一般的でしたが、この水が汚染され、コレラ大流行の一因になったとも言われます。衛生面向上のため、大阪市は明治27年(1894年)頃から近代的下水施設の整備に取りかかり、明治30年以降コレラはあまり流行しなくなりました。このとき改修した下水道も、もとは近世に造られた太閤下水あるいは背割下水と呼ばれる下水道が基盤となっていて、現在もなお使われ続けています。

太閤(背割)下水見学施設
太閤(背割)下水見学施設Taiko Sewage
太閤下水説明板
太閤下水説明板 Explanation Board of Taiko Sewage

のぞき窓が汚れていてうっすらとしか見えませんが、下水道は現役で下をとうとうと水が流れています。ここから見える石組や溝床は明治27年に改修を受けたものですが、江戸時代前期の絵図にはすでにここに水路が描かれていたということです。

太閤背割下水
太閤背割下水 Taiko Sewage

事前に予約すれば、地下に入って見学もできるようです。
ちなみに、背割下水というのは、道路に面して間口を持つ建物の裏側、つまり建物が背中合わせになっているところにつくられる下水溝のことを言います。

太閤(背割)下水見学施設問合せ先
太閤(背割)下水見学施設問合せ先 Taiko Sewage Contact Information

太閤下水の西側に大阪医療センターがあります。その北東角に大阪医学校跡・大阪師範学校跡の顕彰史跡パネルがたっています。横にある明治天皇聖躅碑は、明治5年(1872年)に医学校、明治10年に師範学校を行幸されたときのもののようです。ここは元々鈴木町代官屋敷があった場所です。

大阪医学校跡
大阪医学校跡 Old Site of Osaka Medical School

大阪医学校は、明治2年(1869年)に開設され、オランダ人のボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)が教官を務めました。前身は天王寺区大福寺境内に置かれていた浪華仮病院で、院長は緒方洪庵の二男、惟準(これよし)でした。浪華仮病院は、大阪に本格的な医学専門教育学校と病院を建設しようと薩摩藩の小松帯刀と大阪府知事後藤象二郎が中心となり、まずは仮病院として設立したものです。
明治5年に学制改革があり、大阪医学校と病院はこの地に移ってわずか3年足らずで廃止となりましたが、流れを絶やさぬよう大阪の豪商300人余りが出資し、明治6年、津村別院(北御堂)に大阪府立病院を設立しました。明治12年には中之島へ新築移転し、大阪公立病院、府立大阪病院及医学校となって、現在の大阪大学医学部へ連なります。
五代友厚も、府立大阪病院長吉田顕三に心臓病と糖尿病を診てもらっていたようです。
ちなみに、コレラ患者は避病院という感染症専門病院に送られました。避病院はバラック建てで、流行がおさまると取り壊すか焼却したそうです。

大阪医学校跡説明板
大阪医学校跡説明板 Explanation Board of Osaka Medical School

大阪医学校のすぐ北には舎密局跡があります。舎密局はせいみきょくと読み、化学を意味するchemieに漢字を当てたものです。医学と理化学を切り離すことはできないことから、大阪医学校と同じ明治2年に創設され、オランダ人のハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)を教官に迎えました。舎密局の設置にも小松帯刀と後藤象二郎の建言があったことは言うまでもありません。

史跡舍密局跡
史跡舍密局跡 Old Site of Seimi-kyoku, School of Chemistry

医学校と同様、大阪舎密局は明治5年の学制改革で廃止となりましたが、度々の校名変更を経て明治22年に京都へ移り、旧制第三高等学校、京都大学へとつながります。

舍密局跡
舍密局跡 Old Site of Seimi-kyoku, School of Chemistry

石碑がごろごろしていますが、緑が生い繁ってあまりよく見えません。実際にあった場所は、ここから200メートルほど北の大手前通り一帯ということですから、現在の大阪府庁の南側でしょうか。新築のずいぶんりっぱな建物だったようですが、生徒の数はあまり多くありませんでした。

舍密局説明碑
舍密局説明碑 Monument for Seimi-kyoku

ハラタマ博士の像。
ハラタマは慶応2年(1866年)、ボードウィンに呼ばれて来日し、長崎の精得館で理化学を教えていました。精得館は、長崎海軍伝習所に併設された医学伝習所が発展してできた医学所と養生所を合わせた施設ですが、これを江戸に移して医学・理化学教育をさらに発展させたいというボードウィンの考えを実践すべく、ハラタマは江戸に移ってその準備を進めていました。しかし、維新の混乱やイギリス人医師とのポジション争いもあったためか江戸での開校は実現せず、小松帯刀らの働きかけで大阪舍密舎に迎え入れられることになりました。

ハラタマ博士像
ハラタマ博士像 Statue of Dr. Gratama

舎密局は大阪造幣局の金銀分析にも協力しており、ハラタマは鉱山調査もしていたといいますから、五代友厚ともどこかで接点があったかもしれません。

ハラタマ博士像銘板
ハラタマ博士像銘板 Plaque of Dr. Gratama’s Statue

大阪メトロ北浜駅から堺筋を南へ歩きます。北浜駅の真上は大阪取引所です。五代友厚像にお目にかかれます。

大阪取引所 五代友厚像
大阪取引所 五代友厚像 Statue of Godai Tomatsu, Osaka Exchange

道修町1の交差点を西へ入ります。交差点の東側に見える黒っぽいりっぱな建物は小西家住宅です。道修町は、江戸時代より薬のまちとして知られますが、この住宅は薬種業を営んでいた小西屋の屋敷兼社屋として、明治36年(1903年)に建てられたものです。現在はボンドで有名な会社です。

道修町1
道修町1 Doshou-machi 1

道修町通を入ってすぐに神農さんの看板が見えます。黄色い虎の張り子の絵が描かれています。神農とは中国の伝説上の帝王で、人身牛首で腹は透明、農耕と医薬の神さまとされています。

神農さん
神農さん Shin’nou-san Shrine

神社の隣りには薬と道修町に関する資料を展示している「くすりの道修町資料館」があります。ここにもりっぱな虎が鎮座しています。大阪だけにタイガースを連想しますね。

くすりの道修町資料館
くすりの道修町資料館 Doshou-machi Medicine Museum

由緒書きによれば、張り子の虎は、文政5年(1822年)に大阪でコレラが流行したとき、道修町で疫病除け薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を施与するとともに「張子の虎」を病除け守りとして授与したことから、無病息災のお守りとして世に知られるようになったということです。コレラには虎列剌という漢字が当てられていましたから、虎には虎で対抗しようということでしょうか。

神農さん少彦名神社略記
神農さん少彦名神社略記 History of Sukunahikona Shrine

毎年11月22〜23日に開かれる神農祭では、今も笹につけた張り子の虎が授与され、多くの参拝客で賑わうそうです。

少彦名神社神社本殿
少彦名神社神社本殿 Mine Hall of Sukunahikona Shrine

今年はコレラではなくコロナ退治の虎として活躍してくれそうです。

少彦名神社神社の虎
少彦名神社神社の虎 Tiger of the Sukunahikona Shrine

最後に、緒方洪庵(おがたこうあん)が天保9年(1838年)に開いた適塾を訪ねました。開塾当初は瓦町にありましたが、弘化3年(1845年)にここ北浜(当時は過書町)の地に移転したということです。1階は洪庵の家族の住居と教室があり、2階で塾生が起居していました。

適塾
適塾 Tekijuku School

緒方洪庵は備中岡山の出で、大阪で蘭学塾を開いていた中天游のもとで蘭学、特に医学を学びました。長崎に遊学してオランダ人医師からも医学の教えを乞うています。

史跡緒方洪庵旧宅及塾
史跡緒方洪庵旧宅及塾 Ogata Koan’s Old Residence and School

現在この建物は大阪大学が運営し、一般公開しています。適塾で学んだ塾生たちが大阪医学校に多数採用され、大阪大学医学部の系譜に連なることから、大阪大学の所有するところとなりました。

適塾説明板
適塾説明板 Explanation Board of Tekijuku Shcool

緒方洪庵の銅像です。
洪庵は、安政5年(1858年)にコレラが大流行した際「虎狼痢治準」を緊急出版し、コレラの治療法や看護法に指針を与えました。また、天然痘を予防するための種痘を広めたことでも知られています。

緒方洪庵銅像
緒方洪庵銅像 Statue of Ogata Koan

適塾は、幕末から明治にかけて幾多の優秀な人材を輩出しましたが、福沢諭吉もその一人です。福沢諭吉は五代友厚より1歳年上の天保5年生まれ、五代が長崎海軍伝習所の伝習生となった安政2年に、福沢諭吉は適塾に入りました。福沢は適塾に入る前、長崎に遊学していましたから、五代とはちょうど入れ違いということでしょう。

福沢諭吉と適塾
福沢諭吉と適塾 Fukuzawa Yukichi and Tekijuku School

適塾と同じ通りのすぐ西側に、大阪慶應義塾の碑があります。慶應義塾は福沢諭吉が慶応4年に江戸で開設した蘭学塾で、明治6年に最初の分校を大阪のこの地に開きました。

大阪慶應義塾跡
大阪慶應義塾跡 Old Site of Osaka Keiou-gijuku School

<住所>
太閤(背割)下水:大阪市中央区農人橋1-3-3(南大江小学校西側)
大阪医学校跡:大阪市中央区法円坂2丁目1
舎密局跡:大阪市中央区大手前3丁目1
少彦名神社(神農さん):大阪市中央区道修町2-1-8
緒方洪庵旧宅及び塾(適塾):大阪市中央区北浜3丁目3-8
大阪慶應義塾跡:大阪市中央区北浜2丁目5

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五代友厚 虎列剌(2)
Godai Tomoatsu, Cholera (2)

虎列刺病豫防法圖解
虎列刺病豫防法圖解 明治10年(国際日本文化研究センター所蔵) Korerabyou Yobouhou Zukai, 1877

明治10年(1877年)、清国廈門(Amoy)で流行していたコレラの侵入を危惧した内務省は、8月に「虎列刺病予防法心得」を公布し、避病院の設置や入港する船舶の検査等を指示した。ときの内務卿は大久保利通である。しかし、9月に西南戦争が終結すると、罹患した兵士たちの帰還により各地に流行が拡大した。五代は、同郷で当時堺県知事であった税所篤から「虎列罹病伝満、予防薬のため硫酸鉄千斤配分願う、今日百斤拝受答礼」という手紙を9月に受け取っている。硫酸鉄は消毒に使ったものだろう。

明治12年には明治最大の流行となり、「虎列刺病予防仮規則」や「海港虎列刺病伝染予防仮規則」などが相次いで制定された。これらの規則をもって、政府は船舶の検疫・停船を徹底しようとしたが、諸外国の反対により実施は不十分なままであった。

この頃の五代の書簡を見ると「予防戒心、我輩には感染心配なし」と言って、相変わらず仕事に邁進している様子である。明治11年に大阪商法会議所及び大阪株式取引所を設立したばかりで、多忙を極めていたのであろう。一方、「笠野悪病に斃れ遣憾」ともある。笠野とは薩摩出身の笠野熊吉のことで、明治9年に広業商会の社長となり、北海道開拓使と深く関わりがあった。大阪株式取引所の設立においても五代らとともに筆頭株主となっている。笠野熊吉がコレラで急死した後、かねてより広業商会の相談にあずかっていた五代が、ほぼその一切の面倒を見ることになったようだ。

また、明治12年の新聞には「五代友厚君は此程流行病予防の一助として金二百五十円を警察本署へ差し出されたり」という記事も見える。当時は警察が防疫・衛生の仕事を一手に担っていたため、五代は警察へ寄付をしたものだろう。警察の強権的なやり方には反発もあり、コレラ一揆やコレラ騒動なるものも起こっている。

五代が金銀分析所を立ち上げたときに世話になった紀伊國屋九里正三郎もコレラで死去している。多くの人々が身近な人をコレラで亡くしていた。

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
松田道雄『日本疾病史』1969年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
『朝日新聞 大阪』明治12年7月9日 朝刊

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五代友厚 虎列剌(1)
Godai Tomoatsu, Cholera (1)

荼毘室混雑の図『箇労痢流行記』安政5年(京都大学附属図書館所蔵)Korori ryuukouki, 1858
荼毘室混雑の図『箇労痢流行記』安政5年(京都大学附属図書館所蔵)Korori ryuukouki, 1858

五代友厚は1836年に生まれ、1885年に亡くなっているが、この時代に広がった疫病といえばコレラであった。コレラが初めて日本に入ってきたのは、文政5年(1822年)で、インドで起こった流行がアジア、アフリカにまで波及したのである。浮世絵師歌川広重も安政のコレラで死去したという。

次いで日本で大流行したのは安政5年(1858年)で、異国船の出入りが多い長崎で6月ごろに発生し、8月には大阪、京都を経て東海道筋を江戸にまで到り病勢は激甚であったという。五代は安政4年より長崎海軍伝習所へ遊学していたから、ちょうどこのコレラの流行の中、伝習所での訓練に勤しんでいたことになる。この年の7月に薩摩藩主島津斉彬が急死し、10月になると伝習生たちは鹿児島への帰国を命じられた。斉彬の死因はコレラとも言われている。

藩命により再び長崎に戻った五代は、文久2年(1862年)4月、幕船千歳丸(せんざいまる)で上海に渡る。ここでもコレラが大流行しており、同じ船の日本人3名が犠牲になっている。遺体は上海の浦東に埋葬された。仲間の半数以上が下痢や嘔吐など体調不良に悩まされたというが、五代は精力的に上海の街を歩き回っており、罹患した様子はない。

次の大きな流行は、明治12年(1879年)であった。16万人の患者、10万人以上の死者が出たとされる。この年、アメリカの元大統領グラント氏が来日し、大阪では五代や鴻池、住友などの豪商がグラント氏饗応のためさまざまな準備をしていたが、グラント氏が乗船するリチモンド号は長崎から横浜へ直行してしまい、途中大阪に上陸することはなかった。西日本でひときわ猛威をふるっていたコレラを避けたものであろう。

<参考文献>
松田道雄『日本疾病史』1969年
『朝日新聞 大阪』明治12年8月15日 朝刊

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