天草下島北西の富岡へ、長崎海軍伝習所の練習船が二度寄港している。うち一回の航海には五代友厚も加わっていたかもしれない。
天草は、中世には天草五人衆と呼ばれた土豪たちが勢力をふるっていたが、江戸時代になると関ヶ原の戦いで功績を挙げた肥前唐津藩の寺沢広高の所領となった。寺沢家のキリシタン弾圧と重税に堪えかねた領民は、天草四郎とともに一揆を起こす。乱の後、天草は因幡の山崎家治が治めるところとなり、このとき富岡城が大きく改修された。寛永18年(1641年)以後は天領、つまり幕府直轄地となり、初代代官鈴木重成が富岡城で執務を行う。一時私領となるも、寛文11年(1671年)から明治維新まで、富岡城三の丸は天領代官所として機能していた。
長崎海軍伝習所の咸臨丸が、最初に富岡に入港したのは、安政4年10月9日(1857年11月25日)である。長崎海軍伝習所の教育団長ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)は病気のため同行できなかったというが、航海は万事好成績を収めたと報告を受けている。船長役は勝海舟(麟太郎)で、長崎在勤の目付松平久之丞康正や長崎海軍伝習所取締の木村図書喜毅も乗り込んでいた。第一夜は富岡、第二夜は須口に停泊し、一行は天草で二晩を過ごして長崎へ帰還した。富岡では、オランダ人教官3名、日本人伝習生18〜19人が鎮道寺に泊まったという。鎮道寺の柱には「日本海軍指揮官 勝麟太郎」という落書きが残っている。
一行は、富岡で測量をなし見取り図を作るなどした。目付の松平久之丞は代官所を訪ねている。この頃の富岡は、家数500軒余り、住民は3000人以上、石炭も出たようだ。カッテンディーケは「この辺一帯は、山が多く長崎付近と大して相違がない。よく耕してあり、住民は裕福なように見受けられる」と言っている。
<参考文献>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
河北展生他『木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡』「近代日本研究 (5)」 1988年
松田唯雄『天草近代年譜』1973年