安政5年3月(1858年4月)、咸臨丸(原名 Japan)で鹿児島を訪れた長崎海軍伝習所の教育団長ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)は、山川の様子を次のように記している。
開聞岳という火焔を吐いている山が、日本のほとんど最南端に当たる大きな湾の入口を扼して聳えている。(中略)港から近い所に、硫黄温泉があって、浴客で繁昌しているらしい。(中略)我々は午後中、その付近を散歩したが、眼前一面に展開する景色の美しさに、ただただ恍惚となるばかりだった。見渡す限り一面田圃で、その間に小森や小川が点在している。(中略)私は在る製油工場へ行ってみた。油は菜種の実から製造されているが、その方法は我々のものと殆ど同じである。私は一頭のすこぶる大きな美しい馬を見つけ、(中略)私はそれが欲しくて、ついには買ってはみたが(中略)この馬を運ぶのは随分無理である。
開聞岳は当時は噴火していたのだろうか。硫黄温泉というのは、西郷隆盛が東京から帰郷後に滞在していた鰻温泉のことである。長崎海軍伝習所は、航海術や砲術、算術などを教える傍ら騎馬の時間を設けていた。五代友厚も乗馬を好み、下野後は名馬ありと聞くと金銭を惜しまず購入したという。五代宛に馬の拝借を願う手紙も多く残っている。カッテンディーケによれば、当時、日本の馬は人間と同じように草鞋を履いていたらしい。
咸臨丸は鹿児島からの帰路、島津斉彬の招きで再び山川へ入港する。オランダ人士官らは一人一人招かれて様々な談話を交わしたといい、カッテンディーケは次のようなことも記している。
山川港で藩候は我々のために大掛かりな漁撈をやらして見せたが、実に雑多な種類の魚が莫大に捕獲された。そのとき残念に思ったことは、我々が魚類学者を伴れていないことだった。(中略)また藩候からの賜り物だといって、数箱の菓子と若干の煙草が船に届けられた。
咸臨丸は、同年5月(1858年6月)に再び山川を経由して鹿児島へ来航した。梅雨時であったせいか滞在中ずっと雨が降り止まなかったという。2ヶ月後の7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が急死し、五代友厚ら長崎海軍伝習所で学んでいた薩摩藩士は帰国を命じられる。
<参考文献>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 上巻』1928-1929年
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年