五代友厚 薩英戦争と山川港(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Bombardment of Kagoshima and Yamakawa Port (Footprints)

鹿児島の山川港周辺を歩きました。

I walked around the port of Yamakawa, Kagoshima.

指宿駅からバスに乗って15分ほどで山川桟橋に着きます。山川港のフェリー乗り場があるところです。ここから大隅半島の根占へ渡る船が出ています。昔は琉球や中国と行き来する船もたくさん碇泊する国際港でした。五代友厚が、慶応2年にヨーロッパから帰国した際も、上海経由でまず山川港へ入り、山川から鹿児島城下へ帰りました。

山川桟橋バス停
山川桟橋バス停 Yamakawa Pier Bus Stop

あいにくの雨模様でしたが、湾内は穏やかです。山川港は「深さ三十尋、大船二百四十艘繫る、何風にても船繋自由」と伝えられ、深さも広さも十分、荒天でも安心して碇泊できる港として知られてきました。

山川港
山川港 Yamakawa Port

山川港の案内板です。
今回は行くことができませんでしたが、かつては薩摩文教の府と誉れの高かった正龍寺や山川の海商河野覚兵衛の墓石群なども紹介されています。

山川港周辺案内
山川港周辺案内 Yamakawa Port information Board

フェリー乗り場のそばに「山川港活お海道」という道の駅があり、地元の新鮮な魚介類を出してくれる食堂「鶴の港」があります。鶴の港とは山川港の別名で、砂嘴が鶴のくちばし、陸地が羽を広げたように見えることから、そう呼ばれるそうです。道の駅の建物も山川の形を模しているということです。

道の駅山川港活お海道
道の駅山川港活お海道 Yamakawa Michi-no-Eki

西郷隆盛ゆかりの地ということで、西郷隆盛に関連した場所を紹介する案内板もありました。西郷隆盛は、奄美大島や徳之島へ流される前、風待ちのためしばらく山川に滞在していました。

山川港「西郷どんゆかりの地」周辺案内
山川港「西郷どんゆかりの地」周辺案内 Yamakawa Port and Saigo Takamori

山川の突き出たところに白い灯台があります。番所鼻灯台という名が示す通り、このあたりに津口番所がありました。津口番所というのは、港で船の積荷や人の出入りを取り締まるところで、山川だけでなく薩摩各所の湊に置かれていました。山川の津口番所の屋根に使われていたとされる瓦が残っており、堺喜多九郎兵衛という刻印から、江戸時代に瓦の産地として有名だった大阪の堺で作られたものと考えられているそうです。外国船を警戒して砲台もこのあたりに設置されていたようです。

山川港番所鼻灯台
山川港番所鼻灯台 Yamakawa Banshobana Lighthouse

南へ少し歩いて熊野神社に来ました。10世紀頃に和歌山の熊野社より勧請したということで、古くからある神社です。入口近くに大きなアコウの樹が二本があり、比翼連理の樹として有名だったそうですが、樹齢がつきて今は切り株のみが残っています。

熊野神社鳥居
熊野神社鳥居 Torii Gate of Kumano Shrine

天正11年(1583年)に島津氏が山川港を支配下に置き、慶長14年(1609年)の琉球征伐では、藩主島津家久がここで戦勝祈願を行ったということです。

熊野神社由緒
熊野神社由緒 History of Kumano Shrine

熊野神社のそばに恵比須祠堂があります。白い祠の稲荷神社です。「鰹節製造塲所之碑」や「鹿児島縣水産試験塲傳習所」という記念碑もあり、山川の漁業組合が管理しているようです。

恵比須祠堂建立記念碑
恵比須祠堂建立記念碑 Monument of Ebisu Small Shrine
恵比須神社
恵比須神社 Ebisu Shrine

山川石でできた石塀です。
山川石は、山川の福元周辺でしか採れない美しい薄黄色の石で、鹿児島でよく使われていた所謂たんたど石と同じ溶結凝灰岩です。鹿児島の福昌寺にある島津家当主らの墓石にもこの石が使われています。山川では、あちらこちらで山川石の塀を見ることができます。また、山川の豪商河野覚兵衛の墓にもこの山川石が使われているそうです。

山川石
山川石 Yamakawa Stone

大きなスイカの形をした建物がありました。
山川はスイカの産地として有名です。特に徳光スイカは甘くておいしいとされています。徳光というのは、港からは少し離れますが、長崎鼻で知られる岡児ケ水あたりのことです。ここにある徳光神社は、琉球からさつまいもの苗を持ち帰り広めたとされる前田利右衛門を祀って建てられました。薩英戦争の「西瓜売り決死隊」が舟に積み込んだスイカにも徳光のスイカが含まれていたのでしょうか。

西瓜のオブジェ
西瓜のオブジェ Watermelon

東の海岸沿いに鰹節加工団地があります。
山川のかつお節は、明治42年(1909年)に愛媛伊予のかつお節製造業者がここで土佐節の製造を始め、その製法を習得した山川の山元氏が自家製造を開始したのがきかっけといいます。後発である山川のかつお節が急速に伸びたのは、県内外の高い技術を積極的に導入し、伝習所を開設して技術者の養成に力を注いだことが要因とされます。幕末の山川は、まだかつお節の産地ではなかったわけです。

山川港鰹節加工団地案内図
山川港鰹節加工団地案内図 Yamakawa Katsuobushi Manufacturing Factories

たくさんのかつお節加工工場が軒を連ねています。原料となる冷凍のカツオが次々と運ばれてきます。

冷凍カツオ
冷凍カツオ Frozen Bonito

かつお節をつくるには、カツオだけでなく大量の薪が必要で、山川ではあちらこちらに薪が山積みになっています。

鰹節工場の薪
鰹節工場の薪 Firewoods for Katsuobushi Manufacturing Factory

フェリー乗り場の方へ戻る途中に、河野覚兵衛の屋敷跡がありました。河野家は、藩の御用商人として多くの船を所有した山川の豪商で、琉球貿易や黒糖の専売などに関わっていました。

河野家屋敷跡
河野家屋敷跡 The Old Site of the Kono’s Residence

島津家とも懇意で、島津斉彬が河野家に宿泊したこともあるそうです。また、西郷隆盛が奄美大島に潜居を命じられた際、河野家の船に乗って渡ったといいます。

河野家説明板
河野家説明板 Explanation Board of the Kono Family

港のすぐ近く、海上保安署の向かい側にある肥後藤兵衛宅跡です。西郷隆盛は、奄美大島へ渡る前の2週間、船の風待ちのためこの肥後藤兵衛宅に泊まっていたそうです。

肥後藤兵衛宅跡
肥後藤兵衛宅跡 The Old Site of Higo Toubee’s Residence
肥後藤兵衛宅跡説明板
肥後藤兵衛宅跡説明板 The Old Site of the Higo Toubee’s Residence

<住所>
山川港フェリー乗り場:指宿市山川金生町38-1
番所鼻灯台:指宿市山川福元
熊野神社:指宿市山川福元6124
恵比須祠堂:指宿市山川福元
山川港鰹節加工団地:指宿市山川新栄町
河野覚兵衛屋敷跡:指宿市山川入船町80付近
肥後藤兵衛宅跡:指宿市山川入船町4

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五代友厚 薩英戦争と山川港(2)
Godai Tomoatsu, Bombardment of Kagoshima and Yamakawa Port (2)

山川火薬製造所略図
山川火薬製造所略図 Yamakawa Powder Mill(『薩藩海軍史』より From “The Naval History of Satsuma”)

文久3年6月27日(1863年8月11日)に山川沖を通過した7隻の英国艦隊は、午後7時ごろ谷山郷平川村の七ッ島付近に投錨し、翌朝鹿児島城下まで航進した。薩英間で談判が行われるも進展なく、生麦事件の当事者である奈良原喜左衛門、海江田信義らは西瓜売り決死隊なる作戦を企て敢行するが、こちらも失敗に終わった。7月2日(8月15日)、イギリスは、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)らが乗り組んでいた薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕する行為に出て、五代と寺島はイギリス側の捕虜となる。

このときの様子を、駐日英国公使館付医官ウィリアム・ウィリス(William Willis)は次のように書いている。

・・・退去しない者が二人いたのです。(中略)一人は、第一回日本遣欧使節に随行して英国に行ったことのある男(寺島宗則)で、かなりよく英語を話しました。もう一人の船長(五代友厚)は、やせた、男らしい顔付きの日本人でした。
彼が言うには、自分は非戦闘員の商船の船長であって、イギリス艦船にたいして敵対行為をとりえず、また薩摩の命令がなければ汽船を放棄することはできない、とのことでした。あとになって、彼には汽船を爆破する意図のあったことがわかったのです。

これを機に、薩摩側の各台場が一斉に英艦への砲撃を開始した。激しい応酬の末、イギリス側は、旗艦ユリアラス(Euryalus)の艦長ジョスリング(Josling)とその副司令官ウィルモット(Wilmot)を砲弾で失った。ユリアラスは五代と寺島を乗せていた船である。7月4日(8月17日)朝、英艦は、戦死者11名の水葬を執り行うと、午後4時ごろ谷山沖を出港する。夕刻、山川より英艦退去の報あり、各持場にいた城下兵は帰家を許された。

五代友厚と寺島宗則は横浜で解放され、しばらく潜伏生活を送っていたが、元治2年の春にともに英国へ渡る。同行していた堀孝之の書翰によれば、帰国は慶応2年3月9日(1866年4月23日)で、この日山川へ投錨し、11日に鹿児島へ到着したという。

<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
ヒュー・コータッツィ著『ある英国人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』1985年

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五代友厚 薩英戦争と山川港(1)
Godai Tomoatsu, Bombardment of Kagoshima and Yamakawa Port (1)

正龍寺
正龍寺 Shoryuji Temple( 三国名勝図会 Sangoku-meishou-zue)

五代友厚の父、直左衛門秀堯が編纂した三国名勝図会をみると、揖宿郡山川の章は、熊野権現社や海雲山正龍寺といった神社佛寺が多くを占める。中でも正龍寺は「薩摩文教の府」と呼ばれるほど学問的水準が高く、さらに山川港に出入りする異国船外交文書の授受にもあたるなど、非常に重要な役割を担っていた。

また、安政5年(1858年)に咸臨丸が山川へ来航し、オランダ人と接触したことをきっかけに、島津斉彬は山川に外国人接待所を建設する計画を持っていたともいう。当時、薩摩は琉球や奄美大島を貿易の足場とすべく内々に動きを進めており、山川もやがてそうした拠点のひとつとなる予定であったが、斉彬が同年夏に急死したことですべて水泡に帰したという。

文久2年(1862年)に生麦事件が起こると、薩摩藩は英艦戒厳のためさまざまな策を講じ、そのひとつとして山川成川村の川尻に火薬製造所を建てた。水利に富み、製造水車を設るに便なるのみならず、西南各郷運搬の便も亦宜し、というのが山川を選んだ理由であった。火薬製造所は、土堤をめぐらした道路と川と山に囲まれ、役員以外の出入りは禁じられていたため内部を窺い知ることはできなかったという。

文久3年6月22日(1863年8月6日)、いよいよ英国艦隊が横浜を出港し鹿児島へ向かう。御船奉行副役として長崎に在勤していた五代友厚は、急遽馬で鹿児島へ帰国した。英艦が6月27日(8月11日)午後2時過ぎに鹿児島湾口に入ると、沿岸の烽火台は次々と狼烟(のろし)を掲げ、号砲を放ち、谷山より山川までは西目諸郷の兵が警備に当たったという。このとき山川台場(津口番所付近)には7門、指宿拾貮町村台場(五人番付近)には5門の砲台が設置されていた。

<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 上巻』1928-1929年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
五代秀尭・橋口兼柄共編『三国名勝図会 八』1905年

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