五代友厚 五代豊子(2)

五代豊子の出身地
五代豊子の出身地 大和国式下郡八尾村 Godai Toyoko’s Birth Place, Yamato, Shikige-gun, Yao-mura

明治3年1月(1870年2月)、五代友厚は鹿児島から大阪へ戻るとただちに豊子と結婚した。再婚まもない3月には、薩摩藩が設立した 堺紡績所の件で、豊子をおいて上京している。有川十右衛門宛て書簡によれば「8日晩着京、両国西詰の船宿松田屋へ止宿」、このとき官途への誘いもあったが断り、「男子一度決心いたし候上、再び仕官の志は、譬へ朝命と云へども難報」として、報国の志は大阪で立てると誓っている。五代はこの年、奈良の天和銅山を入手し、鉱山業進出の一歩を踏み出した。

同年末、五代にとって2人目の子が誕生したが、3日後に死去。大谷勝子の生んだ男児であった。明治4年12月6日(1872年1月15日)、長女武子が生まれる。これも大谷勝子の所産であるが、五代と豊子の子として入籍した。さらに勝子は、明治7年に菅子(管子とも)、明治9年に愛子(通称藍子)を生む。菅子は早世したが、愛子は豊子の次女として入籍した。勝子は昭和4年に76歳で没したというから、豊子より2歳ほど若い。五代と豊子の間には所生がなく、明治15年、細見ハツが生んだ久子、五代の没後に生まれた友順も豊子の子として育てたが、友順は明治19年に病死した。

五代は東京滞在中よく豊子へ手紙を送っているが、長女武子の学校や土産のこともひんぱんに触れている。武子は五代が没して後、九里龍作と結婚し五代家を継いだ。龍作は武子を伴い福島の半田銀山や鹿児島の山ヶ野金山などで鉱山の近代化に力を注ぎ、やがて東京に住まうようになる。藍子は9歳で父の死にあうも豊子と反りが合わず、龍作・武子夫妻が半田銀山に入るとそこへ身を寄せた。16歳のとき単身上京して仏英和女学校で8年間フランス語を学び、その後も大阪に戻った形跡はない。武子は、大正4年(1915年)に43歳で亡くなっている。愛子は、大正8年から三重県桑名の治田鉱山で採掘を始め、昭和40年(1965年)に亡くなるまでここにいた。

豊子は、結婚して16年、34歳で未亡人となり、大正14年(1925年)6月14日、74歳で大阪に没した。富豪に嫁いだとはいえ五代は東奔西走していたし、子どもができなかったこと、御妾との関係、残された借金のことなど決して楽な人生ではなかっただろう。娘婿の五代龍作は、母豊子について「人と為り、貞淑温良、君に仕えて内助の功尠からず」とし、五代の書簡や文書類がきちんと整理され大切に保管されていたのは、まったく豊子のおかげであると言っている。五代が豊子を敬愛し、頼りにしていた様子は残された手紙からもうかがえる。

<参考文献>
永見克也『永見家(永見徳太郎ら)と五代友厚との関連』「船場紀要記念特集第7号」1978年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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