五代友厚 五代豊子(1)

五代豊子
五代豊子 Godai Toyoko(奈良新聞より)

五代友厚は、長崎在勤中の文久3年(1863年)、徳永広子との間に娘治子をもうけるが、二人は五代の家籍に入らなかった。欧州視察から帰国後の慶応3年(1867年)春、五代は鹿児島で坂本豊と結婚し、大乗院坊中馬場に屋敷を賜る。しかし、この結婚は五代の母たっての願いを叶えたものであって、五代自身が望んだわけではなかったようだ。

この年、五代は藩際貿易、パリ万博出品物の準備、上海渡航いろは丸沈没事件の仲介、小菅修船場の建造など息つく暇もない忙しさで、鹿児島にいることはほとんどなかった。続く慶応4年には徴士参与職・外国事務局判事として大阪在勤となる。外交上の難題が一段落した4月初め、五代は病気の母を見舞うため休暇を願い出て、一月ほど帰藩した。母やすは6月に逝去。五代は、その後高崎正風や五代東之丞らに離婚について相談している。

明治2年7月(1869年8月)、五代は官を辞し、10月に大阪の今宮に金銀分析所を開設した。一方薩摩藩に仕える身であることに変わりはなく、退官後の身の処し方を説明する必要に迫られ、12月に再び帰鹿した。このとき豊との離婚も正式にかたをつけたのだろう。わずか1ヶ月で郷里を去った五代は、明治3年正月早々、大阪で萱野豊子と結婚し、備後町二丁目に仮居する。

豊子は、大和国式下郡八尾村常盤町で塾を開いていた儒学者、萱野恒次(庸司とも)の三女で、嘉永4年(1851年)生まれという。五代の父も儒学者であったから相通ずるものもあっただろう。豊子は19、天保6年12月(1836年2月)生まれの五代は34になる年であった。豊子の兄は、朝鮮外交に携わり、後に富山県知事なども務めた森山茂である。森山は天保13年生まれで五代の7歳下、文久3年の天誅組の変に加わり幕吏に追われる身となり、その際は豊子ら兄弟も寺の床下に匿われるなど苦労したようだ。豊子は芸妓をしていたとも伝えられる。

兄の森山は、維新後、兵庫県知事となった伊藤博文に見出されて秘書となり、中井弘が外国官となると懇意にしてやがて外国官書記となった。五代も外国事務局に出仕していたから、そこで森山と知り合ったものか、中井が仲立ちしたものか、あるいは森山を介さず豊子と出会ったものか定かではない。五代は北畠治房と親しかったが、北畠と森山は天誅組でつながっていたからその縁かもしれぬ。明治元年10月の高崎正風書簡に「先生にも御手元に絶世の美人御控の事」とある。これはおそらく豊子のことだろう。

<参考文献>
妻木忠太『木戸松菊公逸話』1935年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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