五代友厚 宇和島人脈(2)

西園寺公成
西園寺公成(『宇和島吉田両藩誌』より)

五代友厚の書簡に残っている宇和島人の多くは、明治初年に外国事務局に勤めていた人で、外国事務総督が宇和島の前藩主伊達宗城であったから、必然外国事務局には宇和島人の登用が多かった。

西園寺公成(雪江)は、宇和島藩の小姓頭・目付役で、維新後は大阪府権判事兼外国官権判事として五代とともに大阪運上所や居留地を取り仕切っていた。慶応4年2月(1868年3月)の堺事件でも、ともに大阪と堺を幾度も往復して事の収拾に当たった。仕事上の書簡が多いが、官を退いた西園寺の再就職先を心配したり、「最早40に近いのだから、過度は慎むように」と西園寺から五代へ書き送った明治7年の書簡もある。互いに天保6年生まれであった。西園寺はやがて、渋沢栄一が中心となって設立した東京第一銀行や東京瓦斯会社、東京石川島造船所などで取締役や監査役をつとめるようになった。

土居通夫(土肥真一郎)は、宇和島の児島惟謙と同じ道場で剣術に励むも、20代後半に脱藩し、大阪の高池屋三郎兵衛の所で住み込みで働いたり、京都で中井弘らと倒幕運動に参加するなどしていた。明治になって帰藩を許され、大阪運上所に勤務した。明治5年からは司法省に出仕していたが、明治17年に退官し大阪鴻池家の顧問に就任した。顧問就任には五代の推挙があったとも言われる。明治18年に五代が逝去すると、中之島の五代邸は土居の所有となった。また、土居は五代の三女芳子を養女とし、芳子の婿として伊達宗徳の五男剛吉郎を迎えた。明治28年から第7代商業会議所会頭となり終身その地位にあった。土居が司法官の頃より、伊達宗城や宗徳が来阪の折は土居宅に投宿するのが常であった。

志賀頼母、須藤但馬、桜田大助、宇都宮靭負、都築荘蔵、松尾臣善(寅之助)も、みな外国事務局関係者である。松尾臣善は播磨の出身ながら宇和島藩に仕え、維新後は官に仕えた。五代が退官してからもしばらく手紙のやり取りが続き、そこにはたいてい寒天のことが書かれていた。宇和島は特産品として寒天の製造に力を入れていたから、これを売り捌く算段であったものがうまくいかず、金策に苦労していたようだ。松尾は長く大蔵官僚を務め、最後は日本銀行総裁になった。

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
日本銀行ホームページ 第6代総裁:松尾臣善(まつおしげよし)
https://www.boj.or.jp/about/outline/history/pre_gov/sousai06.htm/
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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