五代友厚 宇和島人脈(1)

児島惟謙
児島惟謙(『児島惟謙伝』より)

数多く残されている五代友厚の書簡の中で、鹿児島、長崎関係に次いで多いのが宇和島人と交わしたものだろう。書簡の数は西園寺公成(雪江)と土居通夫が突出しているが、他にも次のような名前が見える。

井関斎右衛門(盛艮)
児島惟謙
松根権六(内蔵)
志賀頼母
須藤但馬
桜田大助
宇都宮靭負
都築荘蔵
松尾臣善(寅之助)

井関斎右衛門(盛艮)(いせきさいえもん・もりとめ)は、目付として伊達宗城に仕え、慶応2年(1866年)には長崎にあって、鹿児島・宇和島訪問に先立ち長崎に寄港した英公館通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)と、長州問題について意見を交わすなどしている。このとき五代も長崎在勤であったからすでに接点ができている。慶応4年1月、五代は徴士参与職外国事務掛を仰せ付けられたが、井関も同様に外国事務掛で長崎在勤となり、3月には横浜在勤となって寺島宗則とともに外交に当たった。五代との書簡はこの頃の職務上のやりとりがほとんどである。明治3年、五代は本木昌造に依頼して大阪に活版印刷所を開設し、その資金を提供しているが、井関も本木の協力のもと、同3年末に活版印刷による日本最初の日刊紙「横浜毎日新聞」を発刊している。

児島惟謙(こじまこれたか/いけん)は、明治24年(1891年)、来日していたロシアのニコライ皇太子が警備を担当する警察官に切りつけられたいわゆる大津事件で、大審院長として政府の干渉を退けた判決を下し、司法権独立を確立した人物として知られる。慶応年間に長崎へ遊学し五代とも交友を持ったと言われる。書簡は五代よりも、むしろ五代の娘婿である五代龍作と交わしたものが多く残っている。

松根権六(内蔵)(まつねごんろく・くら)は、幕末には父松根図書とともに長崎に出向き蒸気船の買い付けなどをしていたから、そこで五代とも度々顔を合わせている。権六は伊達宗城の三女敏と結婚し、明治元年に父の図書が隠退すると、明治2年頃いったん東京へ出た。その後、司法官として愛媛に戻り、松山治安裁判所や大洲区裁判所の判事を勤めた。残っている五代との書簡は存外あっさりしたものだが、五代が楽しみで描いた画を送ることなどもあったようだ。

<参考文献>
アーネスト・サトウ著 坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上』1960年
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・吉田旧記 第7輯 松根図書関係文書』1999年
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
外務省調査部第一課編『明治元年外国官関係略歴録』1900年

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