五代友厚 英艦の宇和島来訪(2)
Godai Tomoatsu, Visit of British Squadron to Uwajima (2)

樺崎炮台之図
樺崎炮台之図 Kabasaki Battery

宇和島藩家老松根図書は、英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)の宇和島訪問を長崎奉行に承諾させるが、その同じ日、慶応2年6月7日(1866年7月18日)に幕府軍が周防大島を砲撃し、第二次長州征伐が始まった。宇和島藩はしぶしぶ三机に兵を留め置いていたのだが、英艦隊の来藩という理由ができたため出兵猶予を願い出た。すでに長州と手を結んでいた薩摩にとっても宇和島が征長に与しないことは好都合であったから、五代友厚がこの動きに裏で一役買っていたとしても不思議ではない。

英艦は鹿児島を訪問した後、6月24日にサーペント号(Serpent)とプリンセス・ローヤル号(Princess Royal)が、27日にパークス乗艦のサラミス号(Salamis)が宇和島に入港した。パークスが遅れたのは下関に立ち寄っていたためである。城内での調練、伊達宗城・宗徳公の乗艦、南御殿で日本風の饗応、船旗の交換など連日歓待を受け、英艦3隻は7月2日に横浜へ向け出航した。

英艦は2度来宇しており、同年12月1日(1867年1月6日)にはアーガス号(Argus)がラウンド中佐(Round)と英公館通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)らを乗せて寄港した。サトウによれば、湾の両側には砲台があって、小山の中腹には射的場があり、宇和島とイギリスの両兵が射撃の腕を披露した。夜は砲兵隊長入江左吉の家に招待されて酒を酌み交わし、御殿では伊達宗城・宗徳公、松根図書らと酒を酌み交わし、歌い踊って、最後は松根家で松根内臓や林謙三(安保清康)らと一緒の部屋に寝たという。サトウは陽気で親切な宇和島の人々に惹かれたようで、別れをたいそう惜しんでいる。

宇和島を出たアーガス号は12月6日に兵庫へ着船するが、このとき薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、そして五代友厚らが滞阪中であった。五代から松根図書に宛てた手紙によれば、五代は10月下旬からすでに上阪していたようだ。サトウは兵庫で西郷に会い、12月5日に徳川慶喜が征夷大将軍に就任したことや長州征伐、兵庫開港問題などを話し合っていて情報収集に余念がない。

<参考文献>
アーネスト・サトウ著 坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上』1960年
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・吉田旧記 第7輯 松根図書関係文書』1999年
三好昌文『幕末期宇和島藩の動向 -伊達宗城を中心に- 第1巻』2001年

  いいね Like