五代友厚 英艦の宇和島来訪(1)
Godai Tomoatsu, Visit of British Squadron to Uwajima (1)

松根家の旗印
松根家の旗印 The flag of Matsune Family

ヨーロッパ視察を終えた五代友厚は、慶応元年12月(1866年2月)帰国の途につき、上海経由で慶応2年3月11日(1866年4月25日)、鹿児島城下に到着した。約1ヶ月後、五代は再び長崎在勤を命じられるが、英国にいる町田久成に宛てた5月6日付書簡では「片時も寸暇を得不申」「此度出崎の儀も、当月中には用弁」とあり、鹿児島ではベルギー商社やパリ万博準備のため多忙を極め、長崎に戻ったのは5月後半だったようだ。この手紙には「私供帰国仕候節は、既に長崎迄出掛居候位、米行の人数五人は、最早出航相成申候」とも書いてあり、薩摩藩がアメリカへ留学生を送ろうとしていたことがわかる。

一方、宇和島藩の家老松根図書は、慶応2年5月16日(1866年6月28日)に宇和島を出発し、同月29日長崎に至る。その間毎日雨風に打たれ毎日酒を呑んでいたことが日記に書いてある。長崎で息子の内臓に会い西浜町横町の尾崎屋卯吉へ到着。そこへ萩森厳助、矢野安木三郎、五代友厚、山田屋、服部某と芸妓3人が来て宴会が始まった。その後も図書は長崎を出発するまで毎日のように五代らと会い酒宴を開いている。もちろん仕事も精力的にこなし、この間鳴滝のアレキサンダー・フォン・シーボルト(Alexander von Siebold)の所へ行き、英国領事館で領事らに会い、さらに長崎奉行に話を通して、英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)が宇和島を訪問する手はずを整えた。

松根図書や息子の内臓らは自藩の蒸気船「天保録」で6月8日に長崎を出港、小倉経由で6月11日に宇和島の樺崎に帰着した。松根内臓は、それより前4月17日に長崎から上海へ渡り「火船」を購求している。宇和島藩は、庄屋矢野安木三郎の斡旋により蘭商人アルベルト・J・ボードウィン(Albertus Johannes Bauduin)所持の蒸気船を買い入れたのだ。内臓は上海にいる間、薩摩藩の米行き留学生5人と何度か会って話をし、長崎で薩摩藩の野村宗七から預かってきた手紙を手渡している。内臓が上海から長崎に戻ったのは4月29日であった。

<参考文献>
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・吉田旧記 第7輯 松根図書関係文書』1999年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年

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