愛媛県南部の宇和島を訪れました。宇和海を望む伊達10万石の城下町として栄えた宇和島は、山を越えれば高知、海の向こうはもう九州です。
まず、宇和島城に向かいます。
登城口は2ヶ所ありますが、東北側から入ります。この門は、家老桑折氏の武家屋敷から移築した長屋門だそうです。
ちなみに、五代友厚が所有していた半田銀山は、福島県伊達郡桑折町にありますが、ここは伊達氏発祥の地と言われています。
天守にに行く前に城山郷土館に立ち寄ります。
弘化2年(1845年)に三之丸に建てられた武器庫を移築したものだそうです。
郷土館内には、伊達宗城公はじめ宇和島の偉人・賢人を紹介するパネルが並んでいます。関連資料や書籍もたくさん置いてありました。
宇和島城の天守です。
江戸時代以前からの天守で現存するものは12しかありません。宇和島城はその一つで国指定の重要文化財になっています。
中世には板島丸串城と呼ばれていました。藤堂高虎が自分の居城をここに築城したのが慶長6年(1601年)、その際初めて正式な天守が建てられました。藤堂高虎は築城の名手として誉れ高く、宇和島城は敵の目をくらますために五角形の城郭を四角形に見せかけるよう設計されているそうです。
宇和島城からの眺めです。
標高約80メートル、360度の眺望です。城下町は、城の東部に商人・職人町、南部に武家町、山麓に寺院を配し、今も街のつくりはほぼ変わっていません。
宇和島城の北側、五角形のうち二辺はかつて海に面していました。残り三辺は掘に囲まれていますから、名前の通り「島」のようになっています。
城山の南側の登城口、上り立ち門から出ました。武家屋敷の正門に用いられた薬医門という形式で、現存する薬医門の中では最大級だそうです。
門を出て南に少し進むと宇和島市立伊達博物館があります。このあたりは御殿町といい、藩主伊達家の御殿があった場所です。博物館には、宇和島伊達家の古文書類や武具甲冑、豪華な婚礼調度品などが展示されています。
伊達博物館に建っている銅像は、伊達宗城公です。
博物館の門を出ると目の前の路上に「宗城と西郷隆盛会見の場」という説明板が立っています。慶応3年2月に西郷隆盛が来宇し、京都での四侯会議開催の協力を求めるため伊達宗城と会見したということです。
博物館を含めこの辺り一帯は、宇和島藩主の居館である御浜御殿の跡地で、博物館の西側は天赦公園という広場になっています。
7代藩主宗紀は隠居の場所として御浜御殿の一角に大庭園を造り、天赦園と名付けました。幕末の国事斡旋の舞台ともなったといいます。
天赦園のすぐそばの建物に「宇和島伊達文化保存会」と「宇和島歴史文化研究会」の表札がありました。
宇和島伊達文化保存会が刊行している伊達宗城公御日記等のシリーズは、現代語訳ばかりでなく、正にかゆいところに手が届くような注釈がついていてすばらしいです。
天赦園の運営もここで行なっているようです。

次に、藩主伊達家の墓所に向かいます。
途中西江寺の前を通ると、前原巧山の墓の案内板があったので立ち寄ってみました。前原巧山は、宇和島で蒸気船の建造に着手し成功した人です。薩摩藩に次いで、日本人の手でつくられた2番目の蒸気船でした。
結局、前原巧山の墓は見つけられなかったのですが、代わりに西園寺公成妻園江之墓を見かけました。西園寺公成(雪江)は伊達宗城の側近で藩の目付、維新後は外国事務掛として五代友厚とともに大阪の川口運上所を取り仕切っていました。西園寺公成自身の墓は東京の谷中霊園にあるようです。
辰野川沿いをしばらく歩くと龍華山等覚寺に到着しました。
龍華山等覚寺は、宇和島の初代藩主伊達秀宗が創建した伊達家の菩提寺です。山門に大きな伊達家の家紋が見えます。藩主の墓は5代、7代、9代のほかはすべてここにあります。5代、7代、9代は、さらに奥に進んだ金剛山大隆寺に葬られています。
龍華山等覚寺の伊達家の墓所は、東墓所と西墓所に分かれています。東墓所の8代宗城の墓を訪ねます。
伊達宗城と夫人猶子(益子)の墓です。
宗城の正室猶子は、佐賀藩主鍋島斉直の娘で、薩摩藩11代藩主島津斉彬とは従兄弟同士です。猶子の母幸姫(姚姫)と斉彬の母周子(弥姫)が姉妹というわけです。
宗城公の戒名は「靖国院殿藍山維城大居士」とあります。
明治25年12月20日、東京の邸で逝去しました。75歳でした。東京の谷中霊園にも墓があります。子どもは20人以上いたといいます。
龍華山等覚寺付近から宇和島城の眺めです。
<足跡>
宇和島城:宇和島市丸之内
宇和島市立伊達博物館:宇和島市御殿町9-14
御浜御殿跡:宇和島市天赦公園
天赦園:宇和島市天赦公園
西江寺:宇和島市丸穂町甲1140
龍華山等覚寺:宇和島市野川甲1157