五代友厚 伊達宗城(2)
Godai Tomoatsu, Date Munenari (2)

宇和郡宇和島絵図
宇和郡宇和島絵図 Map of Uwajima

五代友厚は、元治元年(1864年)末に宇和島藩の伊達宗城に謁見した際、家老の松根図書(紀茂)にも会っている。松根図書は宗城の信任が最も厚かった人物の一人で、藩の経済、殖産興業に重責を担った。文政3年(1820年)生まれで宗城とは2歳違い、宗城は国政に事あれば必ず図書の意見を求めたという。

元治2年1月9日、長崎に戻った五代がか己ち香蔵(川路要蔵とも)の変名で松根図書に送った書簡には、国許より重役が長崎に来て連絡が遅れたことへの詫びと、宇和島訪問時の礼が述べられている。五代は薩英戦争で捕虜になった自分のことを「人面獣心生盗之国賊」といい、宗城がそのような自分に何度も会ってくれただけでなく、腹蔵なく懇話し拝領ものまでもらった、また、図書に対しては暴論愚説を許し腹蔵ない議論をたまわり、御家内様からも懇命を受けたと厚謝している。

さらに、五代は薩摩藩の家老や留学生を率いてのヨーロッパ行きが決まったことを打ち明ける。国許から来ていた重役というのは新納刑部(久脩)のことで、年来の懇友である刑部と潜行の秘策を練っていたという。また、渡欧に向けて次のような気概を語っている。

尤遠行之上ハ西洋諸国ハ勿論、印度地方支那海香港広東福州上海天津北京迄も罷誠、土地風俗兵整之強弱機会利要之得失研究為仕、専貿易整財の理を目前ニ論破いたし、普く蒙昧を為開、来年四五月頃帰郷仕度・・・

当時海外渡航は幕府により禁じられていたから、この洋行はつまりは密航であった。五代は図書に他言せぬよう再三に渡り念押ししている。渡欧を前に五代は、薩摩藩の御用商人山田屋との引き合わせや英国での小銃買い入れ、図書の来崎などについて触れ、これに応じて宇和島藩は2月初めに図書と若松総兵衛その他数名を長崎に派遣した。

留学生の一人町田清蔵(財部實行)の回顧録によれば、五代は航行中香港で宇和島の殿様御用品として金時計を求め、また、マルタでは宇和島公の御姫様の御用品として立派な珊瑚のかんざしを購入したという。

<参考文献>
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・鹿児島両藩交渉史料「藍山公記」』2005年
大久保利謙監修『新修森有禮全集第4巻』「財部實行回顧談」1994年
三好昌文『幕末期宇和島藩の動向 -伊達宗城を中心に- 第1巻』2001年

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